ハンガリーから戻った頃に僅かに芽吹いていた水仙が3月の声とともに蕾も膨らみ始め木々は芽吹き、草原には至るところ生まれたばかりの子羊が母羊と群れています。梢の天辺で鳴き交わす小鳥達の賑やかな囀り、枝から枝に大忙しのリス達。私達夫婦の暮らす田舎町、ロンドンから100km以上を北上した当地もいよいよ春の兆しです。戻って未だ一ヶ月も経たないのにハンガリー滞在がもうずい分以前の出来事のように思い出されるのは、短い間にたくさんの経験を味わったから、そして、つい先日の雪景色がはるか彼方に思われる陽射しのせいかもしれません。
ブダペスト近郊の町、チョモル(Csomor)に住む友人夫妻に何度かお誘いを頂きながら叶わなかったハンガリー訪問がひょんな話のきっかけで実現したのは2月上旬のことでした。英国を発ったのは欧州異常寒波が報じられる真っ只中、日中でもマイナス8℃前後と聞いてびっくり!防寒衣類をかき集めての旅支度をしながら、これほど低い気温を未経験だった夫と私は案外と楽しみにしていたような覚えがあります。高台に建つ友人宅の居間からの眺めは、何も遮るもののない一面の銀世界、真っ白な庭に立つ何本もの果樹の裸木に花咲く頃や実りの季節が羨ましく想像され、そんな雪景色を心地よい暖炉のぬくもりの傍でのんびり眺めていると、昔、炬燵の中から雪の降るさまを見た時の幸福感に似た思いがしたものです。バスと地下鉄を乗り継げばブダペスト市内にも手軽に出られる地の利、友人が丁寧な説明とともに持たせてくれた地図を頼りに歩いてみればなかなかに楽しく、覚悟していたせいかそれほどに寒さを感じなかったのが不思議でした。
ブダペストを訪れたのは二度目、最初は10年以上も前、短かった滞在で記憶に残るのはインターコンチネンタルホテルの部屋の出窓に寝そべりライトアップされた鎖橋と対岸にそびえるブダの丘を飽かず眺めたことくらい。先ずはその思い出の場所へとセンチメンタルジャーニー。何とドナウ河の川面は流氷に覆われ素晴らしい雄大な眺めで思わず息を呑みました。思いがけない展開に大感激・大満足、この季節に訪れた正解を喜んだひと時です。ハンガリーは温泉でも知られる国ということで訪問の大きな楽しみの一つでしたが、ヨーロッパでも最古のパブリック温泉として紹介されていたセーチェーニーは期待を上回るものでした。湯煙の中に浮かぶ建造物の荘重な佇まいを眺めながらの露天風呂・顔に当たる冷気の気持ちよかったこと!ひと昔前はもしかして貴族やお金持ちのみの入湯者限定だったかしら?自分は現代に生まれてヨカッタわ〜など、ふと思いつつ宮殿のような屋根を見上げておりました。屋内でも数種の湯に浸かりサウナで汗を流し・と実にのんびりと贅沢時間を満喫。お肌はツルツル身体はホカホカ、久しぶりの湯上り気分でありました。
別にもう一つ訪れた温泉はこれとは全く趣を異にした浴場で、クロアチアとの国境にほど近いシクローシュ(Siklos)という町に所在。脱衣場など効率的で使い易いモダンな設備から近年にオープンした所のように思われます。広い屋内には心地よく寛げる湯がいくつもに区切られ、中でも特に気に入ったのは三方に壁を置き光度を落とした空間。湯かげんも程よい熱さでその薄明かりの中に身を置くと心底から安らぎました。この寛ぎを味わえたのは平日の入湯で人が少なかったせいであったかも知れません。英国暮らしの長い私達にとって、これらの温泉体験は至福の時間であったと共にハンガリーに住む日本の方々を大変羨ましく思ったことでした。
滞在の終盤に、有名なモハチ(Mohacs)のカーニバル見物に足を延ばしました。祭りの様子はサイト上の即席仕込みで知った程度。何やら恐ろしげな面をつけた一群の迫力は写真で見ただけとは大違い。事前の勉強不足を反省し〔歴史上の出来事が起源となって続く祭り〕の由来を帰宅後に改めて再読しました。逆立つ髪のごとく長い毛皮から突き出た角に様々な形相の木彫りの奇面(Buso mask)なるもの、ハンガリー語ではどう読むのか知らないけれど、武装と読めばストーリーにぴったり当てはまると、勝手に納得気分。歩み寄った Buso mask の大男と肩を組んだこと、飲め!の仕草と共に突然差し出された瓶の強い酒にむせたこと、歯を剥いた黒褐色のマスクの下から現れた顔の色白で優しいハンサムな風貌に意外な気がしたことなど、愉快な思い出を懐かしんでいます。
この祭りには〔冬に別れを告げる〕人々の喜びも加味されて雪の残る街中は何やら心浮き立つ気分が満ちていました。その夜はモハチからそう遠くないワイン作りで知られる村に投宿。斜面を背に細い坂道に面して色とりどりの小屋のような建物が連なり並ぶ風景は今までに知るワイナリーとは全く違う鄙びた風情でした。きっとハンガリーワインを飲むたびにこの景色が目に浮かぶことでしょう。今回は通り一遍の観光旅行ではなく友人宅に滞在させて頂き、我家のような居心地の中で現地の暮らしの一端を味わえた事は何よりの幸いでした。友人を通じてステキな人との出会いにも恵まれました。旅の間に唯一困ったのは言語です。街中を歩いても何も読めない聞こえない、そんな状況には比較的慣らされている私達ですがやはりもう一歩足りないもどかしさを感じたものです。それでも今回の旅でハンガリーはぐんと身近な国になりました。今まであまり目を向ける機会を持たなかったこの国について敬意を持って知るべきことも多いと改めて考えさせられています。お誘い下さった友人夫妻に感謝!
次は緑溢れる季節のハンガリーを是非訪ねたいと願っています。
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