漸くというか、遂にというか、日本へ帰る日が近づいてきました。ハンガリーに赴任して12年になります。皆さんからは、「長いですね。お勤めご苦労様、ハンガリーはどうでしたか」と言っていただけますが、今ではお勤めという感覚は薄れ、「ここで生きている」というのが実感です。ハンガリーの良いところ、好きでないところ色々ありますが、最近は声を出して論ずる気持ちにはなれません。お互いに問題点を修正しつつうまく付き合い、結果を得る努力をすることが大切で、そういう自然な関係をもてることに意味があると考えるようになりました。たとえて言えば、自分の家族の良いところ、悪いところを論じてもしょうがない。そんな心境と良く似ています。
私とハンガリーの関係は、物づくりから始まりました。文化・芸術・ビジネス(物品の売買)ではなく、経済活動の根幹である物づくりという分野です。製造業を立ち上げ、仕事を軌道に乗せるまで、実に多くの人々と付き合うことになりました。大卒のエリートから最低賃金で働く現場の人たちにいたるまで、幅広い層の人々と付き合うことが出来ました。これは製造業でなければ経験できないことでした。
そして、私は多くの日本人が住むブダペストでなく、そこから南に65kmほど離れた地方都市に居住しました。日本人家族との交流はほとんどありませんでしたが、その代わりハンガリーの田舎のふつうの人々と日常的な交流ができました。多分、ブダペストの生活では考えられないような、飾り気のないハンガリー人社会の中で生活させていただきました。
しかも、私には12年という時間がありました。数日単位の観光や短期の滞在と違って、実に多くの人々や地域とのコミュニケーションの時間をもつことができました。ゆったりとした田舎の空気の中で、実に濃い人と人との関係をもつことができました。こうした日常生活の中で、仕事で赴任しているという感覚は次第に消え、この町、この村に住んでいるという自然な感情が芽生えてきました。
苦戦した日本の物づくり
日本の物づくりの出発は非常に厳しいものがありました。機械が動き始め、工場から出荷した製品は直ちにグローバル競争の真っ只中に置かれます。人間を生産工程のひとつの要素(道具)と捉らえる欧米や中韓の企業は比較的順調な生産活動を展開しているように思います。環境が全く違う海外での物づくりを始めるには、この手法は必須の条件であると思います。これを徹底することで欧米・中韓の企業は実績を挙げており、われわれが学ばなければいけない要素だと思います。
他方、単一民族内で作り上げた日本の物づくりは、人間を労働環境の主要素においているために海外では常に苦戦を強いられています。日本の物づくりは「愛社精神」、「目標達成への使命感」、「チームプレイ」、「客先・組織への思いやり」、「改善・向上心」などメンタルなものをベースにしています。ところが、こうしたメンタルな部分の理解が不十分な中で成果・結果を求めると、管理・組織に混乱が発生します。私自身、欧米のマネージメント手法の一部は日本の物づくりとマッチングしない部分があると感じていますが、ISO等の近代的マネージメント手法をしっかり具現化し、その上に日本の物づくりの思想を建設することが、日本の物づくりを成功に導くものと考えるようになりました。そして、これが私の12年間の目標でした。
組織は上から作っていく
欧米の特徴である個人主義・職種職務の分業化のシステムには、各セクション内会議・関連職場会議・管理職会議・テーマ別社内会議等をもつことで対処してきました。チーム目標の設定・目標達成の為のチームプレイを毎日確認し合うこと、会議で全員が発言すること、各セクションの課題と今日の仕事を全社で共有しあうこと、会議のリーダーはチームプレイを具体化することを常に追求しました。仕事の内容から離れたことでも、積極的に声を掛け合うこと、互いに挨拶をかわすことなどを奨励しました。無味乾燥な雰囲気では、高いメンタルを維持することはできません。こうやって、3年目で漸く日本の物づくりの基礎ができたように思います。これは我が社の財産ですから、当然、現在もなお、明るく気持ちよく働ける環境を維持するために、挨拶の励行を続けています。
他方、日本人赴任者には社内での歩き方・服装・姿勢まで注文をつけ、地元の街での振る舞いにも注文をつけました。会社幹部として、日本企業の代表する者として、常に衆目のなかにあることを意識してほしいと。日本の中間管理職の経験だけで海外へ赴任する者が多いので、ハンガリーでは経営幹部の一員であることの自覚を強く求めまたわけです。
なぜなら、企業管理者のプライドと納得できるリーダーシップは海外工場経営においては表裏一体の重要な要素だからです。ハンガリー人社員が日本人赴任者をリーダー・ボスと認めてくれるには実績と時間が必要です。それまでは一人前の経営管理者ではありません。その点からも日本人の赴任期間の長さは重要な要素で、多くの企業のように3〜4年で交代させていたのでは、名実ともにボスとして認められる前に日本へ戻ることになります。「組織は上から作って行く」。これは先輩が私に教えてくれた格言です。
大切な人間関係
一流のアーティスト、アスリートあるいは日本を代表する大企業の創業者達は、自分の選んだ道・仕事が大好きです。先人たちは私たちに「好きこそものの上手なれ」という言葉を残してくれました。これは仕事内容だけではなく私たちを取り巻く環境にも言えると思います。
皆さん、ハンガリーをどう思っていますか?この国に工場を作り、この国で生産活動をするのにこの国が嫌いだったら、上手く行かないと思います。ハンガリーやハンガリー人を好きにならなければ、この国の人々を導くことができるでしょうか。そのような人にハンガリー人が心を許し、一緒に苦労をともにするでしょうか。工場生産活動する社員の99パーセントがハンガリー人です。このチームメンバーが好きでなかったら、絶対に強いチームは作れないでしょう。
私はハンガリーやハンガリー人の良いところや好きになれないところをいろいろ感じていますが、全体としてかなり高いレベルでハンガリーやハンガリー人を好きになっています。どうしたら、ハンガリー人が好きになれるのか。それは分かりません。はっきり言えることは、労使関係だけをベースに人間関係を作っていったら、なかなか難しいと思っていります。その逆を行く、つまり人間関係をベースに労使関係を構築する努力をすることがポイントではないかと考えています。これは12年間の私の教訓です。
労使関係をベースにすると、利害関係が大きな比重を占めてきます。労使の関係である以前に、我々はそれぞれ日本人とハンガリー人という個人なのですから、そういう個人関係を構築しないと、労使関係が信頼あるものになりません。
こういう実践の結果、今ではハンガリー人社員にたいへん助けられています。思いやりや心遣いを見せてくれる社員が大勢います。「以心伝心」。この気持ちの変化を社員は感じ取ってくれているようです。その影響かどうか判りませんが、我が社は近年多くのお客様から「A」ランクの評価をいただけるようになりました。日本・中国・アジアの各工場に負けないレベルに成長しつつあります。
自発性を引き出す
社員の自発性を引き出すことは、ハンガリーにおける物づくり、日本企業のマネージメントのキーポイントと思っています。「上から言われて実行する。決められた作業標準を無気力に実行する」。こんな文化がまだ色濃く残っているハンガリーですが、指示の仕方の工夫、自由に考えさせる時間をあたえること、批判だけでなく褒めることなど、いろいろ工夫することで社員のやる気が生まれ、自発性が発揮されてきます。
自発性が出るようになれば、ハンガリー人はすばらしい能力を発揮します。そこから、日本人にはない発想も出てきます。仕事も積極的に取り組んでくれるようになります。信頼関係が確立してくると、信じられないことかもしれませんが、思いやりや心遣いも寄せてくれるようになります。
この自発性は労働の質的変化を生み出しました。この自発性は日本の物づくりの根幹を形成し、ひいては人間性の向上に?がるものと思います。歴史的に自発性を抑えられてきたハンガリーの人々が、この自発性の一線を乗り越えてくれるかどうかが、当地での日本の物づくりの出発点であり、チャレンジだとも思います。
素朴で親切な人々
地方都市で長く生活したことでいろいろな体験が出来ました。外資系の大きなスーパーがこの地方都市にも複数出店され、なれない貨幣経済で家庭生活が翻弄されながらも明るく親切でした。子供たちはいつも「チョコロム!!」と挨拶を返してくれました。
ブダペストでは経験できない素朴なハンガリー地方社会の中で、12年間も生活できたことは幸せなことでした。製造業・物づくりを通してハンガリーに出会い、ハンガリーの人々の飾り気のない本当の姿と出会うこと出来ました。「物づくりは人づくり」を掲げる日本の製造業も試練のときを迎えています。最高峰のマネージメントであるが故に、その実現には難しさもあります。しかし、今では日本的な物づくりはハンガリーの人々に最適なマネージメントと確信しています。
これから帰る祖国・日本は地震・津波・放射能・歴史的円高に翻弄され、厳しい試練の渦中にあります。有効な手が打てない政治不在は危機的状況をより深化させています。何が出来できるのか、思案しながらの帰国になります。
今日まで貴重な勉強をさせていただきました。赴任期間中は多くのハンガリーの人々に助けていただき、感謝しています。長い間、ご支援・ご指導を頂いた日本大使館の皆様・日本商工会の皆様、また懇意にしていただき、ご愛顧を賜りました皆様に深く御礼申し上げます。
ありがとうございました。皆様のご健勝をお祈り申し上げます。
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