前 略
 盛田常夫さん、ますますお元気で活躍中のようですね。陰ながら喜んでいます。
 『ポスト社会主義の政治経済学』どうもありがとう。すぐには取りかかれなかったけど、読みだしたら面白く、引き込まれました。ご自身の理論的整理も随分進んで、驚くほど歯切れのよい、明快な書物となっています。かつて、同じような問題意識をもってヒアリングを行ったことを懐かしく思い出します。当時はまだ動いている最中だし、期間も短かかったので、とても整理しまとめるところまでゆきませんでした。それだけに今日こういう書物を手にして、感慨深いものがあります。

 体制転換をとらえるには社会哲学的視点が必要というのはまさにその通り。
 ところで、<計画から市場へ>を退け、配分(配給)システムから交換システムへという整理は理解できますが、当初の精神としては、主観としては、計画経済をやろうとしたが、手段もなく、戦時の緊急の必要に押し流されて物量統制に流されていったということではないですか。社会主義を論じるとき、主観と現実とを一応区別してみることが必要有益に思えるのですが。
 自生的継続的発展を促進せず、能力の退化劣化を促進する自己破滅的なものになったというのは、厳しい物言いだが、その通りだと納得します。それにしても、私には、「恣意的経済管理」の実情を特定の年の実況として赤裸々に描いたものを見たいという気持ちが強く残ります。

 直面しているのは移行でなく社会の転換であるのに、その理解を欠いたIMFなどのアドヴァイザーたちが経済システムの単純な移行を考えたという指摘は鋭い。その通りだと思います。その結果生まれてきたのが借り物経済とゲストワーカー現象であり、脆弱な経済は繰り返し経済危機に見舞われる。
 ところで、現存した社会主義は社会主義イデオロギーに支配されたものだったのか?こう問いかけ、戦時という特殊状況ではともかく、平時になればお題目と化し、個人の生活倫理を律する戒律にならない、したがって戦時のイデオロギーではあっても、平時になるとオポチュニズムに堕してしまう代物でしかなかった、という。
 これも鋭い把握だと思う。
 ただ、社会主義は平時になれば個人の生活倫理を律する戒律たりえないとは果たして言い切れるか?
 計画当局と企業庁との間のコミュニケーション、実際にどういう動機が働くかを見れば、確かにこれはその通りというしかあるまい。しかし、上からの指令によるのではなく、相互に理解しあえる小さな共同体(企業、協同組合)の間には連帯、共生の気持ち、精神が自然に脈打つのではあるまいか。
 はぐくまれるべき市民的倫理というのも、じつは半分ぐらいはそのようなものと重なるのでは?ひどい倫理的退廃をこそなんとなしなければならないと思いますが、独立した私的個人の倫理として確立させようとするのは、少々違うのではないかと思えるのです。それこそ、難しいことではあるが、第三の道を見つけ出さなくては、と思います。官僚独裁でもなく、市場主義の百鬼夜行でもなく。
 私には、まだ市場社会主義(実際にあったものでなく、もっと上等な)についてその可能性を考えてみたいという未整理な気持ちが残っている次第です。
 また、機会があったら、議論をいたしましょう。今回はここまで。

2010年3月10日
(かわかみ・ただお 法政大学名誉教授)