盛田常夫氏の最新刊を読んだ。『ポスト社会主義の政治経済学—体制転換20年のハンガリー:旧体制の変化と継続—』(東京・日本評論社、2010年、3800円)である。まる3日間かかった。中身が余りに濃いので、速読傾向のある私ですら、途中で咀嚼するために暫し書物を閉じて思索する時間が必要不可欠だったからだ。なにしろ、ヤーノシュ・コルナイ、ジョン・ナッシュといったノーベル経済学賞に輝くハンガリーの天才たちの業績の解説に正面から取り組んでいるのだから、堪らない。経済学にまったくの素人である私は、そう簡単にページ数を繰れなかった。
 もっとも、盛田氏の文章は明晰で、実に分かりやすい。おそらくその理由のひとつは、本書の大部分がまず外国語(ハンガリー語)で書かれたからだろう。日本語独特の曖昧模糊として結局何をいっているのか皆目分からない文章は、只の一つもなかった。
 また、最近の日本人の若手経済学者にありがちな統計、グラフ、図表ばかりを頻用する一方、そのポイントを文章で説明する作業をおろそかにする類の過度の数字依存癖は、本書に全く見られない。もとより氏は2〜3数表を挙げている。しかし、それは本文で述べたことの傍証として掲載されているにすぎない。旧文学青年と自称する私は、この点にもすっかり好感を抱いた。
 私が最も感心したのは、盛田氏の独創的なネーミング能力である。例えば、ハンガリー経済を「借り物経済」または「他力本願経済」と断じ、その「キリギリス化現象」、「ゲストワーカー現象」を指摘し、「国庫資本主義」とみなす…などなど。
 私は、ロシア政治を専攻する日本人である。上記のような卓抜なネーミングを用いて行なう盛田氏のハンガリーにおける配分から交換への体制転換の分析は、同じく転換期にあるロシアはもちろんのこと、部分的には自民党から民主党への政権交代を行った現日本にすら適用可能な普遍性をもつと思った。
 以下、ロシア専攻の私が膝を叩いて同感した点を1〜2、記す。
 第1に、盛田氏は、社会主義経済が「計画経済」であり、体制転換を「計画から市場への移行」と説く通説に疑義を唱える。私は経済学にかんしては無知な人間であるが、何千万点以上におよぶ物価や複雑な国民経済の仕組みをどうすれば中央政府が合理的に決定したり管理したりできるのだろうか、との疑問を長年いだいていた。したがって、盛田氏の次のような文章を見出したときに、快哉を叫んだ。「コンピュータもない時代に、(そのようなことは)不可能である」。社会主義経済と称するものの実態は、「第2次世界大戦で各国が利用した戦時的配給システムと本質的に変わらない」。
 第2に、盛田氏は通説を批判するだけに止まらず、それに代る自らの見解を提起する。氏によれば、社会主義社会の自己崩壊は、計画システムの放棄というよりも分配(配給)システムの放棄だった。したがって体制転換とは、国民経済の基本的機能を「配分から交換」システムへと転換することにある。
 第3に、盛田氏は、政治、経済、社会を現実に担う者が生身(なまみ)の人間であることを充分理解している。どうやら氏においては文学、映画、美術、音楽の鑑賞はたんなる趣味程度のものではなく、人間にたいする深い好奇心にもとづいているようだ。たとえ社会体制は一晩で変わろうとも、人々の意識、思考、行動様式は一夜にしては変わらない。徐々にしか変化しない。つまり、制度の転換とそれを担う人間の転換との間には、タイムラグが生じる。そこに、変化と継続という問題が生じる。
 盛田氏が本書で述べていることは、たんにハンガリーばかりではなく、中・東欧のほとんどすべての国、そしてソ連/ロシアに当てはまる。もとより、ロシア経済が中・東欧諸国と異なるのは、ロシアが世界1〜2位のエネルギー資源大国であること。国際的な原油価格の高騰の追い風をうけて、プーチン主義下のロシアは約8〜10年間にわたって奇蹟的な経済発展に浴しえた。ところが、2008年末以来の世界的な金融・経済危機に直面して、ロシアは経済的に最も深刻な打撃を受けた国となった。それらの諸点にかんがみ、盛田氏の分析のひとつひとつはロシア専攻の私にとり実に有益であった。
 例えば、プーチン‐メドベージェフの両人からなるタンデム(双頭)政権は、ロシア産業構造を資源一元主義から多様化することを唱導しているものの、一向に成功していない。私が思わず膝を打ち、下線を引いた本書の21頁の次の一文を、彼らは熟読すべきだろう。「単純化への転換は比較的速く達成できるが、複雑化への転換は比較にならないほどの時間がかかる」。
 とりわけメドベージェフ大統領が昨年秋以来唱えているロシア経済の近代化のスローガンは、その達成方法としてイノベーション(技術革新)を掲げ、それが自国では到底期待薄なので先進西欧諸国から「カネ、知識、テクノロジー」(メドベージェフ)の導入に求めるべし、と公然と説く。これこそは、盛田氏がハンガリーについて批判する「他力本願」思想または「借り物」経済に他ならない。先進西欧諸国からの技術移入はたしかに即時効果こそあげうるかもしれない。しかしそれが国民経済にしっかりと根付くためには、その技術を生み出すにいたった発想自体を学び、それを我が物にしようとする地道な努力が伴わなければならない。さもなければ、ロシアもハンガリーも、何時まで経っても資金と技術の輸入国に止まり、自国の近代化を完成しえないこととなろう。
 もし盛田氏の本書に只1つ瑕疵、あるいは正確にいって読者からの希望があるとするならば、それは本書が論文集であること。もちろん過去にハンガリー語で書かれたものを単に日本語へと翻訳したものではない。日本の読者向けに立派に再編成されている。とはいえ、各章には文章の固さ、柔らかさにかんして若干の差がみられるし、似たような小見出し(例—社会転換のアポリア、体制転換のアポリア)もある。また、経済、政治、社会の章が一貫して整理されていず、扱っている時期も前後することがある。著者の百科事典的な博識、何よりも精力的な知的能力を十分熟知しているだけに、これまでの書物同様次作は是非全文書き下ろしの書物にしていただきたいと思う。
(きむら・ひろし 北海道大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授、拓殖大学客員教授)