これは上記著作の書評ではない。この著作は、すでに昨年の4月ハンガリー語による「変化と継続—やぶにらみのハンガリー社会論」と題するすこぶる瀟洒な装丁に仕上げられた書物としてブダペストの書肆から出版され、ハンガリーの読者たちから大きな反響を呼び起こした研究書の(幾多の工夫が凝らされた)日本語版であるだけに、その書評は当然この研究分野の達人の手に委ねられるべきであることが明白である。私が著者を知ったのは、遠い四十年に余る昔のことである。そのきっかけは、全く偶然の所産である。その経緯に深入りする場所ではないから、ここでは差し控えるが、先年公刊された小熊英二氏による大著『1968(上・下)』(新曜社)、に関わることと言えば、賢明なこの欄の読者には容易に推察することが可能であろうと思われる。それ以来私と著者とはある時は東京において、またある時はハンガリー(おおむねブダペスト)において、交友を重ねてきたのであるが、私はこの著書とは専門分野を異にする素人の一人であるに過ぎない。そうした素人のごく取りとめもない読後感を書き連ねることも「枯れ木も山の賑わい」の譬えの一興かもと考え、著者の懇篤なお求めに乗せられて、雑文を連ねることにした次第である。従って、ここは芳醇なトカイワインの杯を重ねた余りの微醺のなせる、すこぶる個人的な体験とその感想の羅列にすぎないものであることをご容赦頂きたいと予めお断りしておきたい。

 本書の発端の一つが1989年の秋に起った世にいう社会主義体制の大きな転換であることは言を俟たない。その二ヶ月ほど以前に私を取り巻いたすこぶる個人的な体験は今でも鮮烈に思い出される。その年の8月中旬、私どもは二つの学会に参加するために成田を発った。最初に赴いたのが(当時の西独)コブレンツとライン川を隔てて向き合う対岸を分け入った保養地ラーンシュタインで、隔年に持たれている「国際所得国富学会」(通称IARIW)に臨んだのであった。私はその三年ほど前まで、国連本部における統計部門の責任者を務めていた関係で、その時の会議における重要な主題であったGDP関連統計の国際的なガイドラインであるSNA1968年版を改訂するための議論に忙殺された。すでに夏は終わりを迎えつつあった。次の「国際投入産出分析学会」の開催までは十日あまりの隙間があった。その間を利用して、会議の緊張からの解放を求めて向かったのがチロルの小邑ゼーフェルトであった。周辺の山をめぐる小さな山歩きで心身ともにレフレッシュした私どもは、数日後インスブルックからの国際列車でブダペストを目指したのであった。国境での入国は予想の通り厳しいものであった。その数年前の国連在勤の折、ハンガリー政府から賓客として招待を受けたことがあったが、ブダペスト空港で赤じゅうたんの礼で迎えられ、車に分乗してホテルに向かった時の入国の扱いとの余りの違いが懐かしく思い出された。当時すでにこの首都に在住していたこの書物の著者である盛田氏と再会して、彼の車で会議の場所であるバラトン湖の西岸の町ケステレーに着いたのは八月も末であった。会議が始まった二・三日程経ったころのことであった。ホテルの周辺に駐車する車に東独ナンバーがかなり見かけるようになってきた。街中でも同じような体験をした。どうやら例のピクニック事件の余波がこのころ辺りに及んできていたのであろう。しかし、私は会議の進行に巻き込まれ、周辺のニュースに気に留める余裕を全く失っていた。さらに二・三日の後、ハンガリーとオーストリーの国境が解放されるようになったらしいという噂が囁かれるようになった。その現実を嫌と言うほど思い知らされることになったのは、会議が終わり、再びブダペストからウイーンへ向かう国際列車に乗ってからのことだった。その列車は、東独からの旅客によって溢れ、二等車はもとより、一等車の通路まで喧騒なドイツ語が飛び交っていた。結果として、われわれを含めてコンパートメントの乗客たちは、ウイーンで解放されるまで、その中に封鎖されることを余儀なくされる始末と相成った。肝心の国境線には最早哨兵の影は人っ子一人さえも見出すことができなかった。体制変化の胎動が始まりつつあったのであった。
 著者による『ハンガリー改革史』(1991年)、『体制転換の経済学』(1994年)と言った長年の知的思索の集積と稀なる現実感覚により織り成された専門書が、堰を切ったように世に問われ始めたのが、この大いなる体制転換からの直後であることは人のよく知るところである。これに続く第三の著作が『ポスト社会主義の政治経済学』に他ならない。これは前の二つの著作により培われた洞察に基づく大胆な綜合である。体制の転換に伴うハンガリーの経済と社会における変革の現実を克明に分析した上で、そうした現実を導く原理に鋭いメスを加える著者の並々ならぬ力量は、到底他の日本人専門家の追随を許すところではない。このことは幾ら強調しても、過ぎることはない。まして、この研究分野の素人の一人に過ぎない私にとって、この名著の論評に参加する資格は全くないと断言することができる。ただ本書の第1章および10章と補遺の部分は、多少とも私が関心を共有しうる部分である。そのことを念頭に置きながら、多少の読後感を述べるに止めたい。

 著者は、開巻冒頭の第1章において、問題となっている体制の転換を「計画から市場」へという表現で片付けることはできないと指摘している。中央集権的計画経済の成立可能性の経済理論的基礎を問う議論は、ハイエクとランゲと間で交わされた論争を中心として、すでに前世紀の三十年代から続けられてきたところであり、その賛否を明らかにするためには、それらの論争の詳細に分け入る必要がある。そのことを承知の上で、あえて乱暴に結論づけるなら、体制転換の問題の切り口として、かのパレート最適性の達成を自由な市場機構に委ねることが出来るとする新古典派経済理論のパラダイムに頼ることは適切ではないと思われる。むしろ私は、この解決は、T.シェリングが着想しているゲーム理論の展開の上に築かれるべきであろうと考えているのであるが、この点に関しては後に言及する。

 すでに多くの専門家によって指摘されているように、著者が論点を指摘し、掘り下げるに当って秀逸な用語を巧みに駆使する才能は抜群である。本書の中にもそれらの実例が数多く散見される。体制転換の哲学を問う第1章で言及されている、社会を構成する組織を細胞体と見立てる「アポトーシス型社会」と「ネクローシス型社会」との対比(著者の言う対概念)は、その好例であろう。ここで、今更言うまでもない注釈を加えると、基となっている細胞生物学の概念としてのアポトーシス概念とネクローシス概念の間には、論理学上での双対原理は適用されないことに注意しておくべきであろう。その意味で対概念という用語はいささか曖昧である。これら二つの概念が双対の関係を持たないが故に、著者は安んじて考察の焦点をネクローシス社会に絞ることが可能となってくるからである。そのことは別にしても、著者が、これらの二つの概念を生物学、もっと限定的には細胞生物学から引き出してきていることは、体制転換の理論における今後の展開にとって非常に重要なポイントであると思う。ケンブリッジ大学における最初の経済学教授のポストに就いたA.マーシャルは、前世紀の始めに著した「経済学における力学的類同性と生物学的類同性」と題する論文において、暗に一般均衡といった力学的アナロジーに偏するワルラス流の議論を警めて、経済理論において生物学的アナロジーを利用することの必要を力説したことがあった。しかしその後の新古典派経済理論の流行は、ほとんどこのマーシャルの警告を無視してきたように思われる。ただこの偏向は前世紀末以降のほぼ三十年の間に次第に是正の方向を辿りつつあるように見える。例えば、生物学者であるM.スミスの著作『進化とゲームの理論』(1982)は、ひとり進化生物学の発展のみならず、ゲームの理論そのものに対しても、いわゆる「進化ゲーム」理論の開発と展開を通して大きなインパクトを与えたことは人のよく認識するところとなっているからである。

 再びさきに述べた対概念に戻る。著者盛田氏は、これまで存在していた社会主義体制は壊死したのであって、細胞生物学におけるネクローシスに近いとされる。例えば、細胞が細菌などによる害毒に侵され、修復が不可能な傷害を受けると、細胞は死滅する。そのとき、細胞膜の透過性が亢進して、細胞の中に大量の水が入ってくるために、細胞体およびその中にあるミトコンドリアなどの小器官も膨張し、ついには細胞膜が破れ、核をはじめ細胞内の要素が一斉に周囲に放り出され壊死(ネクローシス)に至るのである。言い換えると、ネクローシスとは、外敵によってもたらされた他殺にほかならない。そうだとすると、問題の社会主義体制を壊死に追いやった外敵とは何であったかが問われるべきであろう。ただ本書ではこの問いに深入りすることはなく、「社会主義社会の消滅からどのようにして新しい社会が生成されるのか」という問題の提起、換言すると、「無から有を生む」という「社会転換のアポリア」へと話題を変えているのであるが、私には壊死をもたらした外敵を問う必要がない理由そのものについてのより詳細な情報が欲しい気がする。
ここで著者とは見方をかえて、社会主義体制の終焉をアポトーシスと見たとしよう。その場合には、アポトーシスを起こした細胞が核の中で染色質の凝集をもたらし、DNA分解酵素の作用によって、長いDNAの細糸がブツブツに寸断されるという一連の経過を辿ることになる。これを体制の崩壊になぞらえると、これをある進化ゲームのモデルとして再構築することを試みることも可能であろう。またその試みは、検討に値するものと思われる。ところで、その場合の進化ゲームにおいて、達成される(として)その進化的安定戦略から何が含意されるのであろうか。そうした問題を検討するに当たり、注目すべき要素は、結局のところ、そうしたゲームの当事者(プレーヤー)たちが共有する情報、およびそのばらつきの程度ということになるではないか。著者が提起した「社会転換のアポリア」の背後にはこれらの問題が伏在しているように思われる。

 ところで、こうしたゲーム理論における進化ゲームの枠組みから離れて、社会および経済の制度ないしは組織の歴史的変動の現実をも念頭においた上で、同じゲーム理論における発展という刺激の中で、体制の進化のプロセスを理論化しようとする幾つかの試みが最近なされている。その一つとして、制度なり組織における歴史的変動の解明、とくにその数量経済史的貢献によって1993年のノーベル経済学賞を受賞したD.ノースがその理論と方法を要約している『経済史における構造と変化』(1981)を基礎として、これにさきに言及したT.シェリング(彼は2005年のノーベル経済学賞の受賞者でもある)がその著作『ミクロの動機とマクロの行動』(1978)の中で展開している「近隣の人々における隔離モデル」を下敷きにした研究が、『個人の戦略と社会構造:諸制度の進化理論』(2001)と題してプリンストン大学出版部からH.P.ヤング(出版当時著者はジョンズ・ホプキンス大学の経済学の教授)により公刊されていることに注意しておきたい。
この研究の特徴は、(1) 潜在的なプレーヤーたちが、それの大きな母集団の中から特定されることなく選ばれること。(2)これらのプレーヤーたちの駆け引きが、ある適切に定義された社会空間における近接性により多分に依存していること、(3) これらのプレーヤーたちの行動は、完全に合理的でもなく、またその情報も完備ではないこと。しかし、彼らは、他の当事者たちがいかに行動するかを彼らの過去の行動に基づいて自発的に予想した上で、この予想を基礎として行動すること。従ってこれらの行動は、後々のプレーヤーたちにとっては、慣例(ある種の制度)となって、彼らの行動を制約するという意味で、ある種の合理性が約束されているゲームが作られること。(4) さらに、こうしたゲームの帰結が描く動学経路は、さまざまの外生的要因によって生起するランダムな動揺によって翻弄されることで特徴付けられたゲームの枠組みを持つことである。しかし、ヤングが試みている、こうしたゲームの解から導かれる興味ある推論について、これ以上詳細に議論するためのスペースは、非常に残念ではあるが、全く残されていない。ここでは、盛田氏による卓抜な新著によって喚起されたthrillingなまでの知的興奮の恩恵に感謝しつつ、この雑文を閉じることにしたい。

(くらばやし・よしまさ 一橋大学名誉教授)