「本日ブダペストは大雪となっております」と機内放送が流れ、着陸を前にした乗客がざわつき始めました。東京生まれ東京育ちで大雪の何たるかを知らない私には、傘はどこに入れたかな、などの呑気なことしか頭に浮かんできません。そもそもそのときの私にとっては、暖冬だろうが厳冬だろうが、どうでもいいことだったのです。下宿生活さえしたことのない人間が、一年半という長期間の予定で外国生活に飛び込もうというのですら、頭と心のなかを巡っている問題は別の次元にありました。後から聞いたところですが、その年(1980年)、ハンガリーには冬が早く来て、私が到着した12月18日以前にも既に何度か大雪があったそうです。ともあれ、その大雪の日に私の当地での生活が始まりました。しかし話はもう少しさかのぼったところから始めさせて頂きます。
 その年の初夏、大学院生の仲間達と雑談をしているとき、ある一人が、ハンガリー政府奨学生の募集案内が掲示板に張ってある、と軽く口にしました。雑談中に急にシーンとしたとき、場をしらけさせないための口であって、「新しいラーメン屋を見つけた」でも「あそこに猫がいる」でも良かったわけですが、ちょうど頭に浮かんだものが掲示板だったというだけのことです。その時それがラーメン屋か猫であったら、私の人生は全く別のものとなっていたでしょう。いくつかある掲示板のなかでも私が見ることは決してなかった場所に張ってあったので、彼が言わなかったら、まず気が付かなかったでしょうから。
実はそのころ、所属していた研究室で少し居辛い思いを感じていました。所属先の変更も考えていたほどでした。というのも、専門的にも人間的にも波長の合う先輩たちが長期海外出張に出てしまっていたのです。ですから、奨学生募集の話に「彼らが帰って来るまで外国に逃げるのも悪くない」という考えが浮かんだのも不思議ではありません。そのうえ、ある著名な教授に聞いてみると、「ハンガリーは低次元のメッカですね」とおっしゃるのです。

 この言葉は正常な日本語に訳しますと「ハンガリーは低次元系の性質を示す物質の物理学研究のメッカですね」となります。低次元系の性質と言うのは、例えば電気を伝導する性質が、日常的な(鉄や銅などの)金属のように縦横上下どんな方向にも「三次元的に」電気を伝える、というのではなくて、ある方向に沿ってだけ(一次元的に)、もしくは、ある面に沿ってだけ(二次元的に)伝導する、ということです。低次元系の物理を研究している世界的な大先生も隣のおばちゃんによると、低次元な事を研究している暇人、となるのが常です。

 そのようなわけで、メッカなら行っても良いじゃないか、と思うようになったわけです。願書提出、面接と言ったプロセスを7月に済ませました。しかし、その後何の連絡もありません。秋の学会も終ったころには、ハンガリーの事などすっかり忘れてしまいました。そんなところへ(もう11月でした)突然大使館から奨学金獲得の手紙が届いたのです。
 困った事です。その時には既に所属研究室変更の希望も出し、具体化しつつあるころで、状況は夏の時点より複雑です。それでも「今となっては問題外」と即座に棄却しなかったのは、やはり「ハンガリーは低次元のメッカ」という著名教授の言葉が頭に残っていたからでしょう。色々な人と相談したすえ、結局「メッカ」行きを選択しました。

 大雪の日から始まった当地滞在も既に29年目となります。一年半の予定に比べると少々長くなりました。その間、社会は大きく変化しましたが、自然もかなり変わったようで、今では大雪などかなり稀になってしまいました。残念に思います。雪にこだわり過ぎているようですが、理由あってのことです。両親が北海道出身で、子供の頃によく雪にまつわる楽しい思い出話をさんざ聞かされたものの、冬に北海道へ連れていってくれたことがなく、雪への憧れが満たさえぬ欲求として意識下に潜んでいたようです。当地での初日に大雪景色に囲まれている自分を実感したとたんに胸の底から湧き出てきた幸福感は、今でも鮮明に覚えています。
 なぜここに居座ってしまったか、と云う質問をよく受けます。私の方から見ると、これが最も自然な道だったので、答えるのが少々難しいです。私の当地での研究生活はハンガリー科学アカデミーの物理学研究所にて始まりましたが、それ以来、同じ部屋で同じ机に座っております。当時の同僚たちのほとんどは、年代がシフトしただけで、今でも同僚です。小国であるための必然性か、この国の研究者達はお互いを家族のように助け合います。特に当時はそれが大変強かったです。私もそういう扱いを受けました。これはハンガリー人の民族性でもあるようですが、本当に有り難いことでした(現在、この相互援助の精神は残念ながら少々弱まっているようにも感じられます)。

 予定通りの一年半後に仕事が切りの良い段階にあったなら、日本に帰ったかもしれません。実状は、その頃にはまだ切りをつけられる状態でなく、「始めた研究は終えるべし」と云う責任がありますから、その段階で帰る訳にゆきませんでした。ただ、研究と言うのは芋ほりのようなもので、つるを引っ張ると(運が良ければですが)次々と芋が出てくるので、切りのつけようが難しくなります。そんなことをしている内に私の方が複数のつるで当地に縛られる様になったわけです。ある意味ではぬるま湯にどっぷりと浸かってしまったとも言えますが、私が授かった才能の程度を考慮すると、許される罪の範囲内だと思います。

 ハンガリーでは最近自然科学に人気が無いそうで、同僚たちは嘆いています。今年の大学進学希望を見ても、高校の物理の先生を養成する学科へ願書を提出した人は、全ハンガリーでたったの7名だったとのことで、大変なショックを起こしています。初等中等教育で良い先生がいなかったら研究者になろう等という生徒は出てきませんから、今後のことを考えると、ハンガリー物理界の大問題です(日本でも理科離れの傾向が強まっていることを聞きますが、ノーベル賞四重受賞で流れが逆になることが期待できましょう)。
 物理学にとって現在は大躍進の時代ではなく、地道な発展の時期です。去年のノーベル賞の小林益川理論は37年前の1972年に出されましたが、それが実験的に確認されたのは僅か8年前の2001年のことです。物質を構成する最も基本的な粒子(素粒子)について研究する分野ではこのように理論的研究が先走りしています。私がやっている物性物理の分野では逆に実験的研究が理論を先導しています。物性物理とは、たくさんの原子から構成される、目で見える大きさの物質が示す多様な性質を研究する分野ですが、これまでに無い新しい性質を示す物質が実験室で次々と作り出されるので、それを原理的に説明する仕事の方が後ろから一生懸命追いかけている状況です。「目で見える物質」が如何にたくさんの「原子」から造られているかは、原子をテニスボールの大きさに例えると実感できます。「目で見える物質」は一辺が千キロメートルの箱の大きさになります。孤立した、一つの原子の振る舞いは理論的に完全に知ることが出来ますが、これだけの数の原子が集まると、一つ一つの原子の研究からでは予想も出来ない現象が起こるのです。抵抗無しに電気を伝える、という日常の常識に反した「超伝導現象」とか、逆に、2000年以上前から日常的に知られている「磁性現象」(磁石の性質)など、その多様性は数限りありません。「目で見える物質」のこのような多様性を、原子レベルで有効な基本原理から出発して、物質レベルの法則を導き出して理解するのが物性物理学の醍醐味です。
 素粒子物理学の実験装置というのは、今では超々巨大になっていますが、物性物理の実験は小さくて済むものも多く、個人個人のアイデアの重要性が高いですので、ハンガリーのような小国にもやれることはたくさんあります。そのため物性物理には、民族性が反映されているなー、と思わず言ってしまうような仕事もときどき見られます。ハンガリーが30年前に「低次元のメッカ」と言われたのも、独創的なアイデアを出す非常に高次元な頭を持った実験家と理論家が協力し、互いに助け合う家族的な研究環境を構築し保全していた努力の果実でした。ちょうど「メッカ」期の全盛時に当地に来れたのは、偶然の重なりによるとは言え、私にとっては本当の幸運でした。

 大雪で始めた話はやはり大雪で閉じるのが洒落ていますので申し上げますが、科学アカデミーの物理学研究所は90番のバスの終点、すなわち山の上にあります。大雪が降ると上の方ではバスはすぐ走らなくなります。歩いて下山したことが何度もありました。不思議なことに、同僚と話しながら雪のなかを歩いている時には必ずと言ってよいほど良いアイデアが出てくるのです。最近大雪が少なくなったのを残念に思うのは、子供の頃の雪への憧れというより、むしろそのためです。