今でもわが国では「東欧」と言うと、十把一絡げに捉える向きが後を絶たないから、1960年代半ばの状況は想像に余りがあろう。だが、旅行者の目に映る「不足経済現象」(コルナイ)にしても、「市民社会」のあり方にしても、同じ「社会主義」でも少なからぬ違いがあった。
 食料品や一般消費財の「不足」は、モスクワからワルシャワに行くと「おや、少し良いな」、プラハに着くと「相当に良いな」という感じがし、ブダペストに来ると、当時ですら「ずっと良いな」という印象を受けたものである。
 ワルシャワで最初、私が会った通信社PAP の編集局長はのっけから「世界最初の社会主義が後進ロシで生まれたことから、われわれの不幸はなべて始まる」と言ったが、これは後に80年代、フランス社会党の「自主管理社会主義」論者(ジャック・アタリはその代表格だった)がユーゴスラヴィア自主管理について語る時の語調と似ていた。
 しかし、ワルシャワでは会ったばかりの経済学者が私の面前で電話をかけ「いま、日本の佐藤という経済学者が来ているが、会ってやってくれるか」と経済官庁の友人のアポイントメントを取ってくれるなどは、モスクワでは想像も出来ないことだった。プラハでは少し堅苦しかったが、応対はきわめてソフトだった。

 その後に『別格』のチコーシュ−ナジ・ベーラが待ち構えていたのだった。「チコーシュ」は英語では”horse-man” つまり「馬匹業者」、「ナジ」は”big” だから、「大馬匹業者」となる。当時、私が聞いたところでは、1915年セゲドの名家に生まれ、同地の大学を卒業、ドイツに留学、帰国後は大蔵官僚の道を歩んだと言う。戦争終結直後、逮捕拘留されたが、亡命先から帰国した「ボルシェビキ」のなかに戦後経済再建には良きテクノクラートの協力が要ることを理解していた「開明派」がいて、拘置所を訪れ「われわれに協力してくれたらここから出してやる」と持ちかけたことから、彼の『戦後』が始まったと言う。
 当時、企画庁でも2人の副長官のうち、一人は政治任命、一人はテクノクラートという慣行だったから、こうした経歴を背後に持つチコーシュ−ナジが、後にアカデミー会員、ハンガリー経済学会会長にはなっても、政府ではドイツ語でいう “Staatssekretar”(「事務次官」相当)のランクにとどまったのは分かるような気がする。
 ホテル・ロイヤルでの議論は深更に及んだが、議論の中心は価格問題だった。当時、立案をほぼ終わっていた「新経済メカニズム」の核心は、行政的資材配分の廃止、細かい義務的指標の企業下達の廃止と並んで、「混合価格システム」の採用にあったからである。要するに基礎的生産財、工業完成品、消費財・サービスのそれぞれにつき固定価格・限界価格・自由価格の範囲をそれぞれ決める、ということだった。何となく「三種混合ワクチン」を思わせたが、自由価格の予定範囲は、案外と工業完成品で大きかった。改革実施は1967-68年に予定されていたが、実施の5年後にはトータルで見た「自由価格」のシェアを50パーセントくらいにしたい、というのがチコーシュ−ナジの期待だった。「楽観的に過ぎはしないか」というのが私の見方だったが、それと並んで疑問を感じたのは「限界価格」の作動の仕方だった。価格の「天井」と「床」を指定してその範囲内で当事者に交渉させるということだが、そんなにうまく行くか疑問だった。果たして供給者側の立場が強い『不足経済』のもとでは「天井」に張り付いたのだが、それは後日の物語である。ともかく当時は価格を「柔軟」にすることにバラ色の期待がかけられた、ある意味では幸せな時代だった。私も当時はヒトラー型のチョビ髭を生やしていたチコーシュ−ナジの価格改革の成功を希望して別れたのだった。価格を動かすだけではどうにもならないことが分かった頃には、ナジ氏のヒゲは消えていたが。動乱の後始末は手荒いやり方でつけたカーダールが「われわれに反対しないものはわれわれの味方だ」とスターリン主義のスローガン「われわれに同調しないものはわれわれの敵だ」を逆転させてから2年、街の裏通りにはまだ弾痕が沢山残っていたが、社会がようやく「息つぎ」をし始めた頃のことである。
 ハンガリー動乱のことは話さなかったが、アメリカに亡命した経済学者ベーラ・バラッサのことを「惜しい男で、残っていて欲しかったのだが」というナジの口調に亡命者に対する偏見は感じられなかった。体制転換後の1995年には、彼と知り合って30年を二人で祝うことになる。ナジ老夫人は独仏が達者で、レセプションで「何を召し上がるの」と近づいて来て面倒を見てくれる時には、どこか昔の良家の女学生のような雰囲気があって、心を和ませてくれた。チコーシュ・ナジは2007年11月、92歳で亡くなったが、90歳近い晩年に若い女性と再婚したと聞いて、私はびっくり仰天することになる。だが、私が1965年2月、ブダペストで原作ガルシア・ロルカのオペラ「血の婚礼」を観た時、二列後ろの座席にいた82歳のコダーイ(2年後に死去)は28歳の夫人を同伴していたから、格別、驚くことはないのかもしれない。
 経済研究所で会ったアウシュ・シャーンドルはコメコンに永く出向していた専門家で、私が彼に負うものはきわめて大きい。コメコン経済協力の「建前」を完全に引っ剥がして、協力メカニズムの実態が、ソ連型計画経済の「背骨」である、行政的資材配分方式を國際的に「投影」したものに他ならないことを教えてくれたからである。「これがある限り、いくら市場的要素の拡大を意図してもどうにもならない」というのが、彼の結論だった。1964年には国際経済協力銀行(通称・コメコン銀行)が出来て「振替ルーブル」が導入されたので、わが国でもこれに期待をかける向きがあったが、ハンガリーの専門家はもう完全に醒めていた。「ソ連自体が巨大な統合体で、これ以上の『統合』は必要としない」というのが、彼らの皮肉な言い方だった。アウシュは70年代に入る頃、自殺したが、それが長年の糖尿病によるものだったか、彼自身の悲観主義によるものだったか、判然としない。しかし、眼に涙を浮かべて彼の自殺を教えてくれたのは、彼の「論敵」だったソ連のオレク・ボゴモロフだった。私の脳裏には、いろんな人の顔が走馬灯のように行き交うのである。