ハンガリー・ソヴィエト共和国崩壊まで
 ルカーチ・ジョルジュは 1885 年 4 月 13 日、ブダペストの裕福なユダヤ人銀行家の家庭に生まれた。父ヨージェフはハンガリー総合信用銀行の頭取を務め、後に帝国から男爵の称号を受けた人物であった。母ウェルトハイマー・アデールはウィーン出身であった。父が爵位を受けると、ジョルジュ青年も男爵となった。正式な名 前 は Georg Bernhard Lukács von Szegedin(ハンガリー語:Szegedi Lukács György Bernát) である。しかし、ジョルジュは執筆の際はいつも「György Lukács」の名前を用いたようである。
 ルカーチはギムナジウムを卒業すると、王立ブダペスト大学、ベルリン大学などで学び、1906 年にコロジュヴァール(現ルーマニア、クルージュナポカ)のフランツ・ヨージェフ大学で法学博士号、1909 年にブダペスト大学で哲学博士号を取得する。ブダペストで学んでいる時、社会主義サークル活動を行い、その活動を通じてアナルコ・サンディカリズム(無政府組合主義)を信奉するサボー・エルビンと知り合い交友を深めた。また、1904 年から 1908 年の間は演劇活動にも参加し、イプセン、ストリンドベリ、ハウプトマンなどの劇を上演した。この頃彼はモダニズム、現実主義に傾倒していたようである。
 ルカーチは、1906 年から 1910 年の間ドイツのベルリンで学んだ。そして、哲学者、ゲオルク・ジンメルと知り合いになり、文化的諸現象を観念的、社会学的に分析することを彼から学んだ。また、ジンメルを通じてドイツのマルクス主義哲学者エルンスト・ブロッホと出会い、生涯にわたる交友関係を結んだ。彼との出会いは、ルカーチ・ジョルジュの思想の展開に大きな影響を及ぼしたと言われている。

 1914 年、ロシア人女性と結婚したが、その結婚生活は 4 年で終わった。その後ゲルトルード・ボルトシュティーベルトと再婚し、彼女とは死別するまでの約 45 年を共に過ごした。
 第一次大戦期にはルカーチはドイツで教鞭を執っていたが、この時期に彼の思想は徐々に左派的な方向に転換していったと言われている。
 1915 年、ルカーチはブダペストでディスカッションサークル「日曜サークル(Vasárnapi Kör:Sonntagskreis)」を主宰した。このサークルに は後に各界で名をはせる人物たちも参加していた。ルカーチの思想に多大な影響を及ぼし、彼を最終的にマルクス主義者に転換させたのは第一次世界大戦とロシア革命であった。第一次大戦期、ルカーチはほぼドイツに滞在していた。ルカーチは 1918 年にブダペストに戻りハンガリー共産党に入党、革命的知識人の指導者として文化革新運動に従事した。また、1919 年 3 月より党の新聞、「赤い新聞(Vörös Ujság)」の編集長を務めた。1919 年 3 月 21 日に成立したクン・ベーラのハンガリー・ソヴィエト政権において、ルカーチは教育文化相を務め、彼の指導の下「教育による大衆への文化の普及」政策が実施されていった。
 1919 年 8 月のハンガリー・ソヴィエト共和国崩壊後、ルカーチは数名の同志と共にクンの命を受けハンガリーに残り、非合法の活動に従事した。しかし同志が次々に逮捕され自分の身にも逮捕の危険が及ぶと、ルカーチはウィーンに亡命し約 10 年間そこに住んだ。
 ルカーチは 1920 年代を通して、哲学的観点からレーニン主義の思想を研究した。ルカーチが 1923 年に発表した『歴史と階級意識』は、後にマルクス主義の名著との評価を受けた。しかし、次第にルカーチは党内の教条主義者たちから批判を受けるようになっていく。1924 年 6月の第 5 回コミンテルン大会において、ジノビエフからルカーチは理論上の修正主義者として激しい弾劾を受けた。コミンテルンによりルカーチの戦略が批判されると、ルカーチの政治的影響力は失われていった。彼は表舞台からは退き、理論的な仕事に従事するようになる。

ソ連での活動
 1930 年、ルカーチはモスクワへの召喚命令を受けた。子供たちを学業のためにウィーンに残し、妻と共にモスクワに向かった。モスクワではマルクス=エンゲルス研究所に勤務した 1931年末から 1933 年にかけてはドイツのベルリンに住みドイツ共産党に合流、活動した。1933 年のナチス政権掌握後、ルカーチは再びモスクワに戻り、ソ連科学アカデミー哲学研究所で文学史、美学などの研究に従事した。これ以降第二次大戦後まで、ルカーチと妻はソ連からの出国を許されなかった。また、ルカーチはソ連において幾つかの雑誌の編集の仕事にも従事している。1938 年にハンガリー共産主義作家による雑誌『新しい声』が刊行されるとルカーチも編集に携わり、母国ハンを持った。1942 年にソ連科学アカデミー哲学研究所でソ連における最高学位を得た。
 1930 年代のソ連はスターリンの大粛清に荒れた時代であった。その粛清の対象は外国人も例外ではなく、コミンテルンに参加するためにソ連に住んでいた外国人共産主義者たちも粛清の波にのまれていった。ハンガリー人に限定して言えば、ソ連に亡命していたハンガリー・ソヴィエト共和国の指導者クン・ベーラを始めとする、革命政府人民委員 12 人が逮捕、処刑されている。ルカーチも逮捕され、タシケントに送られた。ルカーチはハンガリー人亡命者の 80% の命を奪ったスターリンの大粛清を生き延びた一人であった。

第二次世界大戦後
 第二次大戦後、ルカーチは妻と共にハンガリーに戻り、ハンガリー共産党のメンバーとして、新政府の一翼を担った。1949 年~1957 年には断続的にハンガリー国会議員を務めた。
 学問においては、1946 年よりブダペスト大学(当時はパーズマーニ・ペーテル大学という名称であった。1950 年からはエトブシュ・ロラーンド大学と改名される)の教授として教鞭を執った。1949 年には、ハンガリー科学アカデミーのメンバーに選出され、ハンガリーにおける学術の振興に携わった。1948 年と 1955 年には、学問・文化・芸術の分野、また、社会主義建設において優れた功績をおさめた者に与えられるコシュート賞を授与された。帰国後に著した著書『若きヘーゲル』、『理性の崩壊』などにより、東欧世界の代表的思想家としての立場を確立するが、1948 年以降になると教条主義の力が増したハンガリーにおいてその活動の場を次第に失っていった。

1956 年革命とその後の運命
 1956 年革命の際、文化相としてナジ・イムレ政府に参加した(これがもとで党から除名された)。そして革命が潰された時には、ナジと共にユーゴスラビア大使館に亡命を求め、その後ルーマニアに追放された。1957 年 4 月にハンガリーに戻ったが、党に戻ることは叶わず、1958 年に第一線から退く形となった。それ以降、晩年は美学や存在論等の執筆に没頭した(その後1967 年にルカーチの名誉は回復され、ハンガリー社会主義労働者党のメンバーとなった)。
 ルカーチ・ジョルジュは 1971 年 6 月 4 日にブダペストで息を引き取った。そして彼は今もブダペスト 8 区のケレペシ墓地に埋葬されている。
 ブダペスト 3 区にはルカーチ・ジョルジュの名を冠した道があり、彼が生きた痕跡を感じることができる。また、13 区のセント・イシュトヴァーン公園にはルカーチの像が建っていた(残念ながら、2017 年に撤去され、現在はそれを見ることができない)。

木村香織(2019 年)『亡命ハンガリー人列伝』合同会社パブリブ 124-127 頁より要約抜粋。