その青年はとても長い指の爪をかんでいた。1974年夏ブダペスト、バルトークセミナーでカドシャ・パール教授がアメリカ人の女性にバルトークのピアノ曲を指導していた教室でのことだった。その青年は助手の通訳と並んで座っていたのに、何をするでもなくときおり爪をかんでいた。鼻がそっていてあどけない顔からするとまだ学生のようだ。あまり上手とも思えなかったアメリカ人女性のレッスンが終わるとカドシャ教授はちょっとため息をついてから、「バルトークのピアノ曲はそもそも…」という講義を10分ほどしてそのセミナーは終わった。40人位いた教室で立ち上がったとき、その青年が正面にやってきて英語で話しかけてきた。
「あなたも音楽家?」
「いいえ」
「じゃあ何をしているの?」
「児童心理学専攻の学生よ」
「名前は?」
「いつまでいるの?」
と質問攻めで、「明日も来て。旧リスト音楽院の住所はこれ。同じ時間に」と紙を渡され、再会を約束してしまった。青年の頬が大きく笑ってくずれた。灰色のまっすぐなまなざしとともに、子供のままに育った人だと思った。

 次の日、腕に無用な負荷をかけてはいけないピアニストのはずなのに、重そうなケースを手に下げて立って待っていた。ここでもまた矢継ぎ早に次から次へといっぱい質問されたが、答えきれずに後は手紙でということになった。これがコチシュ・ゾルターンという音楽家との出会いである。私とハンガリーのつながりは、コチシュとの出会いから、こんなふうに始まった。

 そんなに長くない文面だが、でも筆まめな文通が1年ほど続いた。そして、翌75年にコチシュがピアニストとして初めて日本へやってきた。大学院に通っていた私は自由な時間があったので、「遠くより友きたる、それもまた楽しからずや」と、家族一同でもてなした。残念なことに、関西のリサイタルのときは聴衆が少なかった。まだ無名だったし、何とベートーヴェン交響曲5番をピアノで弾いたので、ピアノの学生には勉強にならないプログラムだったのかもしれない。ピアノコンサートなどに行ったことのない親戚や知り合いを招待したので、私が振袖姿で花束を渡すために舞台に登場した時に拍手が一番大きくなって、困ってしまった。

 このコンサートを終えてから、今度は東京でレコーディングを行った。帝国ホテルが宿だったのに、音響がいいという理由でわざわざ遠い荒川区民会館まで、2日間の録音に出かけた。それがバルトークのピアノ曲ミクロコスモス全曲のレコード録音だった。コチシュの弾くバルトークのきらめく音に、飽きることなく、たった1人の客席で物音を立てないように終日浸っていた。同じ曲を5度ずつ録音し、曲ごとにミキサー室に入って、「ここまではテイク1、ここからはテイク3、またテイク1にもどって終わる」と、手早くコチシュが決めていた。ほとんど間違いがないので、後になればなるほど録音がはかどった。1度目のテイクを選ぶことが多く、そんなものかと思った。たまに間違えると、ハンガリー語で何かつぶやくのですぐにわかったが、何と言ったのかたずねると、はにかんで答えなかったのを覚えている。

 76年8月に漸くレコードが出来上がり、私はこれをレコード会社から預かって冬のオーストラリアへ向かった。その時、コチシュは3ヶ月間のオーストラリア演奏旅行中で、私はメルボルンで開催された心理学学会に出席するのを機会に彼と合流した。学会出席をはさんで2週間ほど、メルボルン、ホバート、シドニーと真冬の演奏旅行に同行した。コチシュはチャイコフスキーのピアノ協奏曲を、ものすごい速さと迫力で弾いていた。文化や習慣が違うオーストラリア滞在が長過ぎて気の毒だったが、私が一緒にいたことを、とても喜んでくれたようだった。

 続く77年にコチシュが再び日本へ演奏旅行に来たときにも、私はまだ大学院に在籍していて時間が自由にとれたので、彼の日本滞在に付き合うことができた。この頃には日本のクラシックファンの間でもコチシュの名前が知られるようになり、ピアノリサイタルの聴衆はどこでも飛躍的に増えていた。N響との協演も実現した。
 そして78年夏、今度は私がハンガリーを訪問して、一夏滞在した。その夏の終わりにブダペストからロンドンへの演奏旅行に同行して日本へ戻ったが、ブダペストでもロンドンでもラーンキ・デジューやシフ・アドラーシュなどのハンガリーを代表する若手ピアニストたちが集まり、楽しくにぎやかな時間を過ごした。

 こうした付き合いが続き、私の中で一つの踏ん切りがついた。そして、ELTE(Eotvos Lorand Tudomanyos Egyetem)の発達心理学科の客員研修員の籍を得て、とうとう79年1月にハンガリーに渡った。すぐにブダペストのコチシュ家に引っ越して、30年にわたる私の長い長いハンガリー生活が始まった。

 それから紆余曲折があり、結局、コチシュとは結婚することにはならなかった。それでも、お互いに別の伴侶を見つけた後は、家族付き合いが始まり、息の長い友人付き合いに変わった。互いの子供たちも仲良くしているので、家族ぐるみで会うことが多いし、彼の演奏会を欠かしたことがない。
今ではコチシュもピアノ演奏より作曲や指揮の仕事をすることが多くなったが、もっぱら彼の演奏だけを聴いてもう35年になる。私の耳もいい音楽、レベルの高い演奏しか受け付けなくなってしまっている。幸せというべきなのだろう。