この3月に8年ぶりにブダペストを訪れた。1月末に定年退職し、夏には帰国することになったので、無性にブダペストに行きたくなった。アテネから機中、眼下にバラトン湖、ドナウ河そして鎖橋が見えた時、22年前の1987年6月、前年起こったチェルノブイリ原発事故のため1年間延期となっていた赴任で、ツボレフ機上から一心に下を見ている自分を想い出し、懐かしさが急に親しみに変わっていった。当時、フェリヘジ空港の周りは一面ひまわり畑で、自分の背丈より高い鮮やかな黄色の海に息を呑み、市場開拓と事務所開設という身に余る使命感で緊張していた気持ちがすっと奥に溶け込んで行ったのを覚えている。以後4年間の日本滞在を挟んで、ハンガリー・イギリス・ギリシャと合計18年を超える海外勤務の始まりとなった。
思い出が経過した時間と馴染みの家並みと出会った人たちの関数だとすると、駐在地の中でハンガリーを第二の故郷だと思っている自分に納得する。出張では幾つもの国を訪問したが、ハンガリーは異文化の中で生活した初めての地、何物にも変えがたい体験をさせてもらったからだろう。ハンガリーには1989年の体制変換を挟んで7年間を駐在員として過ごした。当初は美しい街並みをうつむき加減に歩く市民の姿が印象的だった。ABC(スーパー)の棚にある商品の品揃えは少なく、トイレットペーパーも中国製のゴワゴワとした紙を四角く切ったものしかなかった。冬になると生野菜は姿を消し、外資系ホテルにあるレストランのメニュも小さくなってしまう。単身の一年間で栄養不良となったが、妻が2歳と3歳の娘と一緒に来てくれてからは、体調が戻った。主に出張者に供することになる食料調達のため二ヶ月に一度はウィーンまで車で買出しに行き、皮肉なことにハンガリー産の肉・野菜を買って帰ることもあったが。一方、小さな日本人社会では情報が素早く交換され、偶に市場に出るバナナや、ハンガリー人には余り人気の無い蟹缶やキャビアを安く入手できることもあった。公私にわたり便利な日本との違いを痛感することは多かったが、一般市民に比較して、駐在員の持っている特権を享受していたことも確かである。外貨を持ち、必要なら外交官専用店で買い物も出来、赤いHのついたプレートのお陰で車は実質何処でも駐車可能。国境では長い列を横目で見ながら別のゲートに滑り込めた。
当時、日本人が少なかったので、日本人社会では殆どの人が何らかの役割を担当していた。我家の場合、娘二人が日本人補習校の小学部に入学してからは、先生方やお母さん達と予算やカリキュラムの打ち合わせをしたり、運動会や餅つき大会の準備、バラトン湖への泊り込み遠足では引率の手伝いをしたりしたこともある。今でもわが子たちは、先生方やお母さんの笑顔に囲まれた補習校時代の友達と何かあると世界のどこかで集まっているようだ。
兎に角、厳しい生活の中に手作りの温かさがあった。何度もハンガリーの人たちに助けていただいた。今でも忘れられないのは、家族を連れてショプロン地方にドライブに行き、近くの湖畔で休んでいた時、急に雨が降り出し、慌てて車に戻った。ブダペストへの帰途、妻がハンドバッグを忘れたことに気づいた。慌てて取って返したが、何処にも見つからなかった。パスポートも入っていたので、再発行のことなど考えて気が重くなった。その夜、玄関のブザーが鳴るので、出てみると上品な初老の夫妻が立っていた。「バッグの中を見たら、子供向け人形劇の切符が入っていて、その日時が明日だったので、きっと子供たちが悲しがるだろうと思って」というのである。後日、改めてご自宅を訪ねた折、我々の観劇に間に合うように自分たちの旅行を途中で切り上げて届けてくれたことが分かった。また、ハンガリーに来て間もない妻が幼子二人を連れて、イシュテンヘジの山中で日が暮れて迷ってしまった時には、偶然通りかかった人が疲れ切った子供を背負って山を下りてくれた。さらに、途中で車が止まってくれて、バトンタッチして我家まで送り届けてもらったこともある。私がブリーフケースを道端に置き忘れてしまった時には、近くの工場の門番が見つけて保管し、翌日事務所に届けてくれたこともあった。こうしたことは、私にとっては何処でも無い、確かにハンガリーでだけ起こったことなのである。
今回は3泊と短い滞在であったが、15年ぶりに当時の職場の仲間が集まってくれ、「あの頃が、人生で一番仕事のやりがいがあり、楽しかった」といってくれたのは嬉しかった。
しかし、特に2000年以降のハンガリーを総括して、異口同音に「Worse offだ」と明言したことに衝撃を受けた。新聞でハンガリーの政治経済が危機的状況にあることは理解していたが、これまで何度かの「東欧危機」を乗り越え、1956年にソ連の戦車に蹂躙された時でさえ、ハンガリー中央銀行はウィーンに疎開し、外債返済を継続したという先達の矜持を失ってしまったのかと、その不甲斐なさを残念に思う。変革後間もなく多数輩出した、私の知っている若い起業家達は目を輝かせて将来を語り、懸命に働いていたし、市民は、不安はあるがそれでも期待に燃えた表情を見せ、確かに顔を上げて歩き始めていた。勿論、民営化に伴う汚職やマフィアの暗躍も芽吹いていたが、こんなに汚職まみれの中で没落しようとは思っても見なかった。到着そうそう市民の表情に疲労の影が見えると感じたのは思い過ごしではなかった。
そんな複雑な思いを持ちながら、飛行場に向かう帰りのタクシーの中で振り返ると、エリザベート橋が視界から消え、カルヴィン広場やウールイ通りの高架を過ぎ、見慣れた景色がドンドン後ろに飛んでいく。まるで皮膚が一枚一枚はがされていくような気がして、飛行場では暫く呆然としていた。アテネに向かう飛行機の窓から下を見たが、雲にさえぎられ、あっという間にブダペストの街は見えなくなってしまった。なるほどこれが現実かと夢から覚めたような気がして、ハンガリーに別れを告げた。すると、定年後の道標が見出せずに自信を失いかけていたが、「さて、日本では何が待ち受けているのだろうか?」と、なんだか期待のようなものがふつふつと沸いてきた。 |