初めてフェリヘジ空港へ降りたのがちょうど30年前の1978年12月19日。まだ31歳だった。ハンガリーのことなど何ひとつ知らずに、大学の喧噪から逃れようと、文部省の交換給費生の資格をとって留学した先が、たまたまハンガリーだった。本当のところ、どこでも良かった。赴任した法政大学の無法状態とも言える騒乱から身を引き、静かな場所で読書三昧したいというのが本音だった。ほとんど人気のない、寂れた田舎の空港に足を入れ、どこか間違った世界に降り立ったのではないかという錯覚に襲われたのを覚えている。
今から振り返えると、この地域に縁があったようだ。これに遡ること10年。1968年、大学3年時の夏、21歳になる直前に300名を超す日本の大きな代表団の英語の通訳として、ソ連とブルガリア、ルーマニアに旅行した。ソフィアではソプラノ歌手、成田絵智子さんのピアノとの音合わせの場に入り通訳した。1カ月ほどの旅行を終え、新潟沖に戻ったところで、ソ連軍(ワルシャワ条約軍)のプラハ侵攻のニュースがラジオから流れた。その当時はまさか将来、この地域に関係して仕事をすることになるとは想像もしなかった。この年の初めからヨーロッパでは学生運動が盛り上がっていたが、日本でも秋から大きな喧噪・騒擾状態に入った。1968年はプラハ侵入やヴェトナム戦争激化で反戦運動が高まっただけでなく、世界各地で大学生が大学や街頭で大騒動を起こし始めた年として知られる。1969年1月初めの東大紛争の終結からこの年一杯まで、日本の多くの大学で休校状態が続いた。このあおりで東大入試が中止となった。
当時、私は郷里の富山県高岡市が設立した学生寮に住んでいた。国際基督教大学のゴルフ場に隣接する土地に、富山の田舎町が学生寮を所有していた。私が大学に通うためにあるような寮だった。毎朝、寮の運動場の裏口からゴルフ場を小走りに横切りながら授業を受けに行くのだが、いつも遅刻して、アメリカ人教師にもう1回遅刻すればE(落第)だと脅されたものだ。
この学生寮は1学年10名程度の所帯で、住人のほとんどが高岡高校出身者だった。多摩地区の大学だけでなく、都内のいろいろな大学に通っていた。だから、大学の情報はいろいろ集まってきた。私は団塊世代の最初の学年になるが、一級上の学年には実に優秀な人材が集まっていた。東大の数学・情報理論教授になった竹内郁雄や環境省事務次官を務めた炭谷茂も同じ寮の住人だったが、彼らは大学紛争にわれ関せずと勉学に勤しんでいた。この寮の住人ではなかったが、やはり高岡高校出身のこの学年には東大学生運動で名を馳せた人物がいる。河内謙策は駒場自治会委員長を務めた後、東大紛争時には法学部緑会委員長を務めていた。大学卒業後、出版社に勤めていたが、司法試験に合格して、現在は弁護士として活躍している。河内とともに本郷キャンパスの農学部自治会委員長を務めていた林良博も、やはり高岡高校のこの学年である。今は農学部教授になっている。高岡高校の名前が一躍注目されたのは、これらの秀才たちのお陰だ。もちろん、このような学生が自然に育ったのではない。60年安保を経験したカリスマ教師が途方もない影響力を与えてくれた。立て板に水の弁舌と明快な歴史解説は高校生の心を捉え、選択授業では教室をはみ出す受講者が集まるほどの名講義だった。富山県教育委員会は「左翼学生」を大量に輩出させた長谷川毅教諭を左遷し、進学校ではない小さな町の高校に隔離してしまった。いかにも地方の教育委員会がやりそうな仕打ちである。
私の学年はまともに大学紛争に巻き込まれた。ほとんどが各大学の自治会活動に参加していた。そういう噂が広がって、この寮に子供を入れると「赤に染まる」という風評が流れ、高岡市教育委員会は管理人(寮長)を交代させ、小学校校長経験者を派遣したが、何の効果もなかった。新任の寮長は父の元同僚で、赴任早々、私にStudent Powerの意味を聞いてきたので苦笑いするしかなかった。寮では議論することもあったが、実際には寝に帰る場所か、麻雀で気を休める場所にすぎなかった。私の学年には富山県立大学教授になった宮田伸朗と弁護士で活躍している鍛冶富夫がいる。1級下の学年には一ツ橋大学に通っていた滝田修と頭川博がいて、専攻もテーマも違っていたが、一橋大学大学院で再び一緒になった。滝田は竜谷大学へ、頭川は高知大学へ赴任した。さらにAFSのアメリカ留学で1年遅れたために、2級下で寮に入ってきた角崎利夫は第二志望で国際基督教大学に合格したが、東大にも合格して、もちろん東大を選んだ。1998年のロシア危機勃発前に経済調査でモスクワを訪問した折、日本大使館の政治担当公使として赴任していて、懐かしい出会いとなった。カザフスタン大使を経て、この1月からセルビア大使としてベオグラードに赴任することになった。ブダペストとベオグラードで再会するのが楽しみだ。今から考えると、この小さな高岡市の寮に実にさまざまな人材が集まっていた。
国際基督教大学は2度の長期休校で、4年の在学期間中、実質3年しか大学に通っていない。大学卒業が1970年5月で、一橋大学大学院入学が1970年4月という履歴になっている。紛争当時は東大駒場キャンパスに通い、人気教授の授業を聞いて歩いた。国際基督教大学の長期にわたる紛争は友人関係をことごとく壊してしまったが、数少ない友人の中で、武田清子教授が顧問をしていた社会科学研究会「リベルテ」で一緒に読書会を主催していた森建資と2級下の保立道久はそれぞれ東大大学院に進学し、現在、森は東大経済学部で歴史・労働問題担当教授、保立は東大史料編纂所教授を務めている。2007年春に東京で30年振りに旧交を温めた。
話は1978年12月に戻るが、冬のハンガリーは暗かった。到着してすぐにクリスマスになったが、すべての店が閉まってしまったのに驚いた。とにかく物がない時代である。ようやく探したレストランで「ステーキ」という文字を見つけたので注文したら、生のひき肉が出てきたので困ってしまったのを覚えている。しかし、春がきて明るい日差しを受けるようになると、それまでの暗い印象が一変した。英語と日本語の専門書を50冊も持参して、それを片っ端から読むつもりだったが、それでは面白くないと思い始め、辞書を片手にハンガリー語の専門書を訳し始めた。ハンガリーには国際的に知られる数理経済学者が何人かおり、そのうちの一人がコルナイ・ヤーノシュだった。留学当時はコルナイに関心はなかったが、留学が終わる頃に、センセーションを巻き起こした「不足の経済学」(Economics of Shortage)が出版された。それでコルナイ経済学のエッセンスを日本の学界に周知させることが、1980年代の私の仕事になった。昨年12月、コルナイは17年振りに3度目の日本を訪問した。神奈川大学の創立記念行事に招待され、東大・一橋大学・京大でも講演し、無事、ブダペストに戻ってきた。法政大学に招聘した1983年にはまだ56歳だったコルナイももう80歳を超えた。ノーベル経済学賞を獲得できるのかどうか。寿命との競争にもなっている。
1980年に留学を終えて大学にもどったが、最初のハンガリー漂着から10年経た1988年8月に、再び長期滞在することになった。カーダールが引退し、ハンガリー共産党(社会主義労働者党)に大きな変化の兆しが見られるというので、在ハンガリー大使館で最初の専門調査員として赴任することになった。当時のM大使は変わり者で、「俺が頼んで来てもらったわけではない。本省が勝手に送り込んだ人材だ。大学の先生など大使館には要らないから、俺は知らない」という態度で、無視を決め込んでいた。もっとも、無視された方が気楽で、直属の部下にあたる公使初め、館員は皆、大使権限を振りかざす横暴に困っていた。赴任早々、H公使から「大使のことは適当に受け流しておいてください。抵抗しても始まりませんから」と言われたのに驚いたが、確かに並大抵のことでは対抗できないような小独裁者だった。会議では最初から最後まで1人で喋りまくり、それで終わり。館員から良い提案があっても、すぐには返事せずに、何週間も待たせて承認するという手法をとっていた。どうでも良いことに拘って肝心なことは決めない(決められない)、子分だけを可愛がって能力のある人材を使いこなせない人は、本当の仕事はできないという典型例のようなものだ。
臨時の館員会議が招集される度に、今度こそ大使離任かと皆で期待したが、「陛下の容体を報告する。本日午前10時の体温、血圧、脈拍は...。皆さん、何かの時に備えてください。以上終わり」という報告ばかりで、何度もがっかりさせられた。この時期の大使館はまるで戦前の天皇制国家に戻ったようだった。「昭和天皇崩御」に際して、大使から公邸の「御真影」への集団拝礼の指示がきたが、「思想信条に照らして私は参りせん」と大使に欠席を通知した。その時は突然のことでとくに意見はなかったが、後で「あれは赤だ」と陰口を叩いていたようだ。こういう人と「私が赤なら貴方は何様ですか」という議論をしても益はない。
この大使が離任していなければ、1989年に始まる大変動に日本大使館は対応できなかっただろう。1988年秋から1989年春にかけて急速に進行した政治的プロセスの詳細は、私の分析報告によって適時的に本省に伝えられた。今はカリフォルニア大学バークレー校でロシア研究所所長をしているベレンド・T・イヴァンは、この当時、ハンガリー科学アカデミー総裁を務めており、改革派の代表として中央委員会に出席していた。中央委員会で大激論が闘わされる状況になり、会議が終わる度に彼を訪ねて議論の内容を教えてもらい、それに分析を加えて政治報告をまとめた。大使の方は、自分が依頼してもいない政治分析報告を本省へ送付するのをためらった様子だったが、少なくとも本省からは感謝された。
幸い、1989年春にM大使の退官が決まり、能吏である関栄次大使と渡辺伸公使のコンビによって、ハンガリーの大激動期を乗り切ることができた。関大使より半年ほど早くサウジアラビア大使館からハンガリーへ単身赴任した渡辺公使とは毎日昼食を共にし、大使館の改革や移転などを議論し、M大使をどう説き伏せるかなどの戦術を一緒に考えたものだ。今となっては、これも懐かしい想い出になっている。
大使館時代に起きた中欧の歴史的大変動によって、私の人生も変わった。ジョージ・ソロスなどが支援する新政府への政策提言組織であるブルー・リボン委員会のファンディングメンバーに野村総合研究所を招聘した関係から、水口弘一社長と知り合う機会があり、法政大学を辞して野村総研に移り、1990年3月から再びブダペストに戻ることになった。
その後、渡辺伸さんはアルジェリア大使時代にすい臓がんが見つかり、若くしてお亡くなりになった。学究肌で真面目な渡辺公使のことは今でも忘れられない。渡辺さんの方が私よりもはるかに学者らしかった。
若くして命を落とすニュースに出会う度に、胸が締め付けられる。『異星人伝説』を翻訳出版して間もなく、米原万里さんが早速、「週刊文春」に書評を書いてくださった。当時の在京ハンガリー大使のセルダヘイ君が、ピーター・フランクルや吉川弘之学術会議会長を招いて大使館で出版記念会を開いてくれるというので、米原さんに招待メイルを送った。米原さんをよく知る佐藤経明先生からのアドヴァイスだった。快く出席していただけるものと思っていたら、「そういうつもりで書評を書いているのではありませんから、お気遣いなく」というそっけない返事がきた。佐藤先生には、「それも一つの見識だと思うので、これ以上誘うのは止めます」と彼女の返答を伝えた。その米原さんが癌を患っていることを佐藤先生から聞いていたが、それから4年もしないうちにお亡くなりになった。作家としてこれから長く活躍できる才女だったのに、残念至極としか言いようがない。
『異星人伝説』の著者であるマルクス・ジョルジュ教授とも懇意にさせてもらった。ハンガリーを代表する原子物理学者で、かつ国際的に知られた物理学教育の推進者である。ハンガリー科学アカデミーで開いた日本語版出版記念会も、多くの学者を集めて盛大に行ったが、マルクス教授はすでに癌に冒されていて、何とか日本語出版が間に合った。しかし、邦訳の2刷がでた時にはもうお渡しすることができなかった。多くの人々に惜しまれ、ファルカシュ墓地で盛大な葬儀が営まれた。
2008年9月初め、インターネットのニュースを見て仰天した。草柳文恵さんが自殺したという。それも高層マンションのベランダから首を吊ったというのである。そういえば最近はメディアで見かけないとは思っていた。乳癌で苦しんでいたようだが、発作的な自殺は薬の所為ではないだろうか。
北海道テレビの東欧取材で文恵さんがハンガリーを訪れたのは1989年11月初め。もう記憶が確かではないが、何かの伝で日本の制作会社から私に電話がかかってきて、取材のアテンドを頼むということだった。勝手にアテンドする訳にはいかないから、外務省の便宜供与を申請するように指示した。文恵さんは故草柳大蔵氏の長女で、青山学院の学生時代にミス東京に選ばれた才媛である。どれほどの才女なのか興味があった。ところが、ハンガリーに到着した翌日、彼女は腰痛で動けなくなった。痛風発作の症状によく似ていたが、とりあえずテレビクルーは街の取材に出掛け、私は彼女をレザー光線による針治療に連れて行くことになった。私もテニス肘やら痛風、持病の腰痛でいろいろ温泉治療を試しているところだったので、テルマルホテルで知り合った整形外科医の家まで連れて行った。治療を終え、TBSラジオの定時番組へ電話参加するために大使館に戻った。ハンガリーの報告をしなければならないというが、一日中、バタバタしていて何も準備できていない。私が急いでテキストをまとめ、彼女はそれを復唱して生番組に備えた。放送を無事終えて、ついでに次週にワルシャワから放送する分のテキストも作成した。
原因不明の腰痛は翌日には嘘のように治った。大事をとって、その日も仕事を休み、テルマルホテルの温泉へ連れて行った。クルーは主役なしでハンガリー国境の撮影を終え、それから私のフラットに集合して、皆で夕食をとりながら「生オケ」パーティになった。古びたグランドピアノを借りていたので、歌謡曲や演歌などを弾いて盛り上がった。文恵さんは、「それでは私も一曲」とショパンを弾いてくれた記憶がある。最後の夜はオペラを見たいというので、「ボェーム」のチケットを手配し同行した。クルーはオペラではなく、キャバレーへ流れたと記憶している。
数日の短い期間だったが、楽しい時間を過ごさせてもらった。「ミス東京」や「棋士との結婚」の話題は、週刊誌などで読んだ覚えがあった。「将棋指しと結婚したんですよね」という不躾な質問にも、「あー、真部さん?もう別れたのよ」という調子で会話が弾んだ。快活ではっきりした口調の物言いは今でも耳に残っている。その後、何度か電話で話をしたり、手紙をいただいたりした。見事な達筆であった。私は専門調査員の仕事を終えた後、しばらくして大学を辞めて、ハンガリーに舞い戻ったので、連絡が途絶えてしまった。私が知っているあの文恵さんが自殺なんかするわけはないと思う。骨太で大柄な彼女の体が、骨と皮だけになっていたという記事も読んだ。闘病生活が苦しかったのか、人生が終わったと考えたのか。それにしても、あのような発作的な行為は薬の所為ではなのか。年老いて娘に先立たれた母上の心情を察すると、言葉もない。
父母や年長の友人・知人が次々に世を去っていくだけでなく、私よりも若い才女たちも急ぐように去っていく。これから追悼のことばを認める機会が増えていくことだけは間違いない。合掌。 |