80年代は、70年代末の東欧累積債務危機の表面化を前触れとし、80年8月のポーランド、グダニスク造船所の大ストライキをきっかけにした独立労組「連帯」の成立と政労交渉、いわゆる「グダニスクの暑い夏」で開けた。私は「連帯危機」がピークに達した81年3月初めから一月ほどポーランドに滞在した後、ブダペスト経由で帰国した。
 ところで私はこれまでフルシチョフ解任(1964年10月)、連帯危機最中のポーランド、ゴルバチョフ登場(1985年3月)直後のソ連といった、旧ソ連・東欧の歴史的な節目に居合わせる幸運に恵まれたが、この二番目だけはある程度、私の『予測』が的中した結果だった。
 東欧累積債務危機の目玉はポーランドのリスケ(債務返済繰り延べ)だったが、それを巡る険しい論議の最中、79年10月にポーランドの翌1980年度経済成長はマイナスという信憑性の高い予測が出た。その頃、日本学術振興会の海外派遣申請締め切りは10月末だったが、私は「これはもう何か起こる」という予感で急遽、申請したのである。
 ポーランド派遣申請者など多くなかった頃のこと、すぐ採用され、1980会計年度中に出国ということになった。講義や年度末試験の義務の関係上、会計年度末に近い1981年3月初めの出国としたのだったが、その間に1980年8月の「グダニスクの暑い夏」でポーランド情勢は激変したのである。ここまでは勿論、私が予測できたことではなかった。
 グダニスク政労交渉では、政府側顧問にヨゼフ・パエストカ、連帯側顧問にタデウシュ・コヴァリーク、ヤドヴィガ・スタニスキスといった旧知の経済学者が顔を並べて対峙していたから、私にとっても他人事ではなかった。この時、急進派のスタニスキスは「全要求貫徹」を叫んでレアリストのコヴァリークを顰蹙させたらしかった。
 何分にも政府が弱腰だったから「36項目」の要求が全部通ってしまったのだが、経済危機の中で実現できるはずもない要求が全部通ったのだから、当事者でない私も「どうなることか」と憂慮の念を深くした。改革派のポーランド経済学者たちは、綺麗な市場モデルの改革構想に耽るばかりで、目前の危機からそこまでどう『橋』を架けるかを議論している向きは皆無に近かった。ポーランド内外でソ連軍事介入の危惧が高まっていた頃のことである。
 ブダペストの経済研究所では、今日、ネオリベラルのイデオローグになっているバウエル・タマーシュがただ一人、胸に「連帯」のバッジをつけ研究室の壁には「連帯」の旗を立てていたのも印象的だったが、何と言ってもニェールシュ・レジューさん(当時、アカデミー経済研究所長)との議論の鮮烈な記憶に代わるものはない。
 当時の手帳を取り出してみると、私は4月7日にニェールシュさんに会っている。ニェールシュさんの話し方は最初からして極めて端的だった。「いま、ポーランドの『連帯』に向かって吼えている犬が三匹いるが、そのうちチエコは吼える振りをしているだけだから心配ない。しかし、ソ連と東ドイツには『安易な解決』(と、拳を握る格好をして見せて)に傾斜している強力な勢力が存在する。4月末までに情勢を安定させなかったら、危ない」。
 ここまで率直な話し方をしてくれた人はかってなかったから、私が深く感動したのは言うまでもない。ニェールシュさんの話し方にはどこか「リークしても良い」と言わんばかりのところがあったから、私はブダペスト経由でワルシャワ取材に向かう旧知の「朝日」記者、S君に託して、マイクロ・テープに吹き込んだ警告メッセージを送ったのだった。
 危惧されたソ連の軍事介入は同年12月13日、ヤルゼルスキ政権による「戦争状態宣言」(戒厳令)と「連帯」非合法化で「代行」されることになったが、この時のニェールシュさんとの議論は、今もまざまざと脳裏に蘇って来る。
 ニェールシュさんは1923年3月生まれ、元は印刷労働者で1940年ハンガリー社会民主党に入党、戦時中も国内で活動していた。戦後の強制的な「社共合同」でハンガリー勤労者党(共産党)員となり、1957年に党中央委員、60年代半ばからの経済改革への動きを党上部で主導して内外で「ハンガリー経済改革の父」と呼ばれた。その後、政治局員にもなったが、チエコ軍事介入後の「保守逆流」のなかで1974年3月、政治局員から下ろされた。しかし、中央委員のポストは保持したままで科学アカデミー経済研究所長の職にあった。体制転換直前に党名変更された「社会党」党首となったが、1994年、社会党が政権に返り咲いた時も、政府首班の座には着かなかった。
 ニェールシュさんは戦後、カール・マルクス経済大学の夜間部に入学、経済学を学んだが、学位は持っていなかった。あくまで「ミスター・ニェールシュ」だったので、どう『敬意』を表するか、いささか困ったが「ミスター・ディレクター」と呼ぶしかなかった。ある時、私がチコーシュ・ナジと話していた折、うっかり「ドクター・ニェールシュ」と言ったら、彼が少し皮肉っぽく「ニェールシュはドクターか?」と言うので、「 いや、ドクター以上だ」と応じたことがある。ことほど左様に、学歴のいかんに関わらず学者たちの尊敬を集めていた。
 1994年に政権を奪回した社会党が汚職スキャンダルにまみれて1998年国政選挙で大敗北を喫した時、ニェールシュさんは自党のことでありながら「社会党は敗北に値した」と私に語った。あくまで誠実な人であった。ニェールシュさんは80年代末に一度、来日したことがあるが、その時「マゴにささやかな土産を買って帰ってやりたいがおカネ(外貨)がない」ということで、大使館員が立て替えて上げたとも耳にした。
 英語で”decent”という形容詞を付けられる人は多くないが、私がこの言葉で真っ先に思い浮かべる人は、ニェールシュさんである。

 東欧累積債務危機は1982年の中南米債務危機の煽りを受けて増幅され、ハンガリーもリスケの直前まで追い込まれた。しかしこの時、国立銀行首脳部は「ポーランドのようにリスケをやったら、国の信用はがた落ちだ。最後の一ドルまで闘う」と腹をくくり、カーダールの全面的支持も得て、まるで「日銭」を動かすような金融操作で急場を切り抜けた。この時の国立銀行首脳の「奮闘」は賞賛に値した。しかし、その代償は大きく、国内経済は厳しい緊縮を余儀なくされた。
 だが、それは60年代後半以降の経済改革に対する審判でもあった。西側で一般に抱かれていたイメージのように「市場機構」がビルトインされていたら、企業側に引き締め圧力が高まったはずだが、対外債務急増に驚愕した政府がいわば「手動ブレーキ」で引き締め政策に転じるまで拡大基調は止まらなかったからである。
 チコーシュ・ナジが70年代末に考案した「競争価格システム」は、外貨換算レートを通じて世界市場価格を国内価格に転移するというもので、伝統的な労働価値論を基礎にした価格形成方式からの離脱という意味では理論的な「突破」ではあったが、実際には「机上の空論」に過ぎなかった。
 この頃から新しい改革の波が始まったが、それは個人営業の規制緩和、企業では「労働チーム」、一般には小規模協同組合やリース経営の拡大を基調にしたものだった。個人営業にしても、例えば私営のケーキ屋さんが余り便利でないところに500メートルも離れてポツンポツンとあるのでは「逆独占」なって競争は働かない。私営を認めるならば思い切って沢山認めないと意味はない、というコルナイの言葉通りだった。
 労働チームというのは、労働者が何十人かチームを作って企業の設備を借りて正規の労働時間後に追加生産をする。企業に設備使用料を払った後の実入りは自分たちで分け合うという仕組みだった。
 小規模協組で目立ったのは商店やとくにブティック経営などで、建前としては3人以上(実際は一人のことが多かったらしい)が資金を出し合い、材料は小回りを利かせて良いものを仕入れ、腕の良い職人を雇ってブティック物を作る。デザインブックはフランスやイタリアから幾らでも入るから簡単である。
 本麻のブラウスなどは西側ではもう高くなり2万円では買えなかったが、こうしたブティックでは8000円くらいで買えた。「東欧のお土産はもう結構よ」と言っていた家人が「またブラウスをお願いね」と言い出したのはこの頃のことである。
 しかし、一番身近に助かったのは、リース経営のレストランだった。それまで公営のレストランを入札制によるリース料を払って請負人が経営する、ほとんど私営レストランと変わらないシステムである。途端に味もサービスも良くなったから、どこを選ぶか楽しみになった。しかしコルナイの話によると、不便な通りにある経済研究所の食堂は、入札する引き受け手が無かったそうだった。
 これらは皆、今日の目で見たら生温いものだが、当時にあっては極めて新鮮だった。こうした擬似私経営の飾りつけは悪趣味なものが多かったから、街は俄かにけばけばしくなった。住宅団地の中庭に入ると、向かい側の一階が商店になっていたりした。
 これらは経済改革や経済システム論の用語でいうと、所有・経営の「ハイブリッド化」だが、ともかくそれまで「タブー」だった公的所有支配に最初の手が付けられたのである。
 しかし、「所有論」の七面倒くさい論議はともかく、その「本音」は「政府はオーソドックスなやり方で所得を増やしてあげることはもう出来ないから、みなさん、適当にやって追加収入を得て下さい」という、極めてハンガリー的な「プラグマチズム」ではなかったか。街を歩き回りながら、そんなことを考えたりしたのである。
 だが、それは結果として経済の「混合経済化」を促進するものとなった。いつかは「単一の国有・国営経済」になるというのが伝統的な社会主義イメージだったとすると、実態はそれからますますかけ離れてゆくわけだから、理屈でもどこかでそのギャップを埋めなければならない。こうして支配政党の改革派多数は伝統的な将来社会像を放棄、実態的には社会民主主義に次第に傾斜して行くことになった。
 ハンガリーやポーランドは特に突出していたけれども、各国とも支配エリートですら次第に体制護持の信念を失って行ったのではないか。80年代を通じてイデオロギーや一党制支配の「儀式化」「空洞化」が進行したことが、次に来る体制転換に与えた影響は決して小さくない。「ローマ」ならぬ「体制転換」は「一日にしてなった」のではなかった。

(さとう・つねあき 横浜市立大学名誉教授)