2017年12月に1週間ほどブダペストに滞在したのだが、いきなりその話を始める前に、簡単な自己紹介を兼ね、昨年末の滞在に至った経緯を書いておこうと思う。筆者は2010年から大阪大学でハンガリー語を4年間学び、その後大学院で音楽学を専攻している。専門は一応のところ第二次大戦後のハンガリーの音楽史・芸術史で、社会主義時代に結成された、民俗舞踊や民俗音楽を舞台用にアレンジして上演する民俗舞踊団を主な研究対象としている。2015年9月から翌年8月までの約1年間、調査のためにブダペストのリスト音楽院へ留学していた。同音楽院の演奏科には多くの日本人留学生がいて、彼らの活動の成果は演奏会やコンクールで目にすることができるが、演奏ではなく研究を専門とする筆者のような人間がその成果を発表する場は、主に論文発表と学会発表の2つである。そして今回の滞在の主たる目的は、ハンガリーの作曲家であるコダーイ・ゾルターンの没後50年を記念して開かれた国際学会に参加することであった。
 人からもよく言われるのだが、筆者はとにかく楽天的で、暗い気持ちになって何もできなくなるだとか思い悩んで夜も眠れないだとか、そのような経験はほとんどしたことがない。その一方で、ちょっとどうにかしないといけないほどの健忘でもあって、つい数日前に読んだ本の内容でも、自分が口に出したことでも、あっという間に忘れてしまう。だから、さっきの「そのような経験はほとんどしたことがない」というのも、単に忘れてしまっているだけという可能性は非常に高い。今回の件でも、学会に応募したことをすっかり忘れていて、発表が受理されたという旨のメールがきて思い出すという始末であった。幸い、発表当日まで2ヶ月半ほどあり、内容も当時執筆中の修士論文の一部であったから、かなり楽観的に発表準備を行なっていた。
 ところが、出発まで1ヶ月少しというところで想定外の事態が起きた。事の発端は、ハンガリーの敏腕テレビリポーターであるバイェル・イロナ氏(写真中央の女性)が大阪大学で行なった講演会を聞きに行ったことである。かなりおもしろい人らしい、という前評判通り、遮られようがお構い無しの饒舌さで語られる彼女の経歴や数々の体験談、そして生命力と好奇心に満ちた目からは、筆者がこれまで会った誰よりも強烈な印象を受けた(噂によると、とあるハンガリーの記事が彼女に「充電不要のバッテリー」というあだ名をつけたらしい)。講演会終了後、筆者は彼女に、12月にブダペストへ行くこと、そこで自分の研究に関する発表を行うことを告げた。こちらとしては、学会の合間に軽くお茶でもできればという気持ちだったのだが、彼女の返答は全く想定外のものであった。「それは素晴らしい!ぜひあなたのインタビューを撮りましょう!」。この突然の提案は、しかし魅力的でもあった。ハンガリーと関係を持ってから約8年、ハンガリー語もある程度身につけ、自身の専門分野に関してもささやかながら言いたいことも出てきた。そんな自分がハンガリー社会でどれほど通用するのか、このインタビューを通して試してみようと考えたのである。これまでそのようなインタビューを受けたことなどなかったが、不安はまったくなく、イロナと2人でのプライベートインタビューならばむしろ楽しみで仕方がなかった。
 ところが、出発日の12月5日にさらなる想定外が起きた。午前中に関西空港に到着し、これからハンガリーへ向かう旨をイロナにメールしたところ、彼女から「M5(ハンガリー国営放送局の1つ)の朝の番組に生出演することになりそうだ」という返事が来たのである。これはちょっとまずいぞ、と思い、出演予定の番組名をインターネットで検索したところ、どうやら2人のインタビュアーと対峙して5分間ほど話すコーナーのようである。ちょうど日本の「徹子の部屋」に似ている。プライベートインタビューだと思っていたものが、まさか生放送の「尋問型」になったのだから、さすがの筆者も焦り、飛行機の中では学会発表の準備どころではなかった。
 ここまでが、ブダペスト到着までの経緯である。そしてここからがやっと滞在中の話になるのだが、正直なところ、あまりに忙しすぎたのかほとんど記憶がない。それでも、何も書かないというわけにはいかないので、記憶の残滓をたどって滞在中の出来事を綴ってみようと思う。
 今回の滞在の主たる目的であった国際学会は、これまで「ハンガリーの音楽家」と評されてきたコダーイの活動を、インターナショナルな文脈の中で捉えなおしてみようという趣旨のもと、3日間にわたって開催された。学会発表というのは、もちろん自身の成果を発表する場でもあるのだが、それと同じくらい(もしくはそれ以上に)、同業者との交流が重要である。筆者はランチタイムの時間に、かねてから話したいと思っていたハンガリー音楽学界の重鎮であるショムファイ・ラースロー氏や、研究関心が類似している若手の研究者と知り合うことができ、そういう意味では今回の学会発表の機会を有効に使うことができたと思っている。
 そして例のインタビューは、筆者の発表の翌日に行われることとなった。朝早く、イロナがホテルの前までタクシーで迎えに来てくれて、ブダ側の奥地にあるM5のスタジオへと向かった。到着後、まずはメイク室へと案内され、なんだか色々よく分からないものを顔に塗られたのだが、担当してくれた女性が怪訝な顔をしていて、向こうも向こうで、なんだかよく分からない奴が来たな、と思っていたのかもしれない。その後、番組スタッフや責任者のおじさんと軽い挨拶を交わし、スタジオの中に連れて行かれたのだが、打ち合わせはいつするのかと尋ねたところ、「そんなものはないよ!あと3 分くらいで出番だから、頑張って!」という衝撃の言葉が返ってきて、一気に冷や汗が吹き出したのをよく覚えている。そして、そのままカメラの前に放り出され、必死で質問に答えているうちにあっという間にインタビュー終了、というのが実際の感覚であった。ただし今になって考えてみると、こちらもこちらで大変な目にあったが、もし万が一筆者がアブない人間で、打ち合わせもせず本番に突入して放送事故でも起こしたらどうするつもりだったんだろうと思う。おそらく、イロナが連れてくる奴なら大丈夫だろうということなのだろうが、それでもテレビ局の度胸というか放胆さというか、とにかくそういうものを実感する出来事であった(もしかしたらそんなことは何も気にしていないという可能性もあるが)。
 そして、実はイロナがもう1つインタビューを準備してくれていたのだが、これが筆者にとっては今後の研究の突破口となるものであった。というのも、筆者が研究対象とする民俗舞踊アンサンブルの現芸術監督であるミハーイ・ガーボル氏に許可を取り、最新プログラムのリハーサル見学、そしてミハーイ氏と筆者のプライベートインタビューをセッティングしてくれたのである。ここにもテレビの取材が入ることになっていたが、今度は生放送ではなく収録だったから、特に緊張することはなかった。ミハーイ氏は、リハーサル中ずっと筆者のそばに立って、プログラムに使用されている音楽や振付の説明をしてくれ、その後のインタビューでは少し突っ込んだ質問にも丁寧に答えてくれた。研究者としてはまだ駆け出しの筆者を対等に扱ってくれ、今後、アンサンブルが所蔵している楽譜や映像史料を研究のために使用する許可まで出してくれた。筆者は2018年4月から博士後期課程に進学するのだが、早速それらの資料調査へ出かける計画を立てているところである。
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 以上が、昨年末のハンガリー滞在の顛末である。その後、学会で知り合った若手研究者とはいまもメールでやりとりをしているし、テレビのインタビューを見た人たちから直接連絡をもらうこともあった。その中には、リハーサル見学をさせてもらった民俗舞踊団の元メンバーたちや、初代芸術監督のお孫さんからの連絡もあって、今後の調査にぜひ協力させてほしいという言葉もいただいた。そういう意味では、筆者の研究方針がそれほど的外れでもないということは分かってきたし、この滞在が結果的にかなり大きな意義を持つものになったと言える。
 こんな風に、なんだか大変な思いをしたけど最終的にはよい結果が出るというような経験はこれまでもたくさんあって、やはりそれは筆者の、何にでも向こう見ずに飛びついていく性向と、大変なことはさっさと忘れてしまう特性の賜物だろうと思う。もちろん、筆者を受け入れてくれた学会のオーガナイザーやミハーイ氏、多くの機会を作ってくれたイロナにも感謝の気持ちでいっぱいである。またすぐに彼らに会えるのが楽しみだ。

(まつい・たくし)