私は2010年から今年6月までの約2年間をブダペストで過ごしました。ハンガリー留学を志したのは、私が武蔵野音楽大学大学院に在籍していた時でした。ベルケシュ(現武蔵野音楽大学客員教授/ジュール・フィルハーモニー管弦楽団芸術監督)先生との出会いが大きなきっかけとなり、先生と共に2007年夏にリスト音楽院小ホール、エステルハージ城など、国内数ヶ所にて木管アンサンブルのリサイタルを開きました。現在リスト音楽院は修復工事のために建物内に入ることはできませんが、当時アンサンブルの練習場として毎日通うことができました。練習室からは多くの学生達の音が聞こえ、日本で耳にする学生の音よりもとても感情的で、技術的にも高度だった印象でした。その頃はまだ、自分がリスト音楽院に留学する決意も無かったのですが、刺激になったことは間違いないです。 武蔵野音楽大学、更に大学院で学び次のステップとして国際コンクールへの挑戦とF.リストの作品を学びたいという目標が出来ました。大学院での修士論文のテーマにリストの作品を選び、リスト研究者として学識高い福田弥(武蔵野音楽大学専任講師)先生から多くの知識を学びました。もともと、私はリストという作曲家の作品がとても好きでしたが、論文で追求していくうちにリストの人生観そのものに共感していました。国際コンクールの第一歩として、昨年ブダペストで開催されたリスト国際コンクールへ参加することも、留学を決めた大きな理由でした。 さて、ここからが「留学生活の思い出」になるかと思いますが、2010年に札幌にてリスト音楽院の入学試験があり、私と同期で入学をした男性がいました。私は大学院を修了する年での受験で、彼は高校を卒業する年での受験でした。互いに意気投合し共に合格が決まり、ハンガリーでの1年目を共同生活することになりました。私の先輩にも当たる知人の協力のもと、部屋を探す事から始まり、いよいよ男2人でのハンガリー生活がスタートしました。初めの一ヶ月はそれぞれ街中を散策したり、海外生活への対応に悪戦苦闘しながらの日々。私より断然に若い同居人はとてもアグレッシブで、すべての事に興味新々。世間的には私もギリギリ若者ではあるが、追いつくのに必死でした(笑)私は同居人に感謝していることがある。 海外での留学は人それぞれ考えが違うが、私の場合日々の生活においても、練習においても常に存在の意識が出来ることです。演奏の善し悪しはともかく、演奏会とは聴衆がいて成り立つものです。これは演奏会が特別な訳ではなく、演奏家は常に聴衆の心を魅了するために練習に励んでいるはずです。同居人は共同生活での支え合いだけでなく、時として聴衆の1人として認識することができました。本番での演奏だけが特別ではなく、家での練習そのものが本番と隣り合わせとなり、緊張感を持って練習することができました。練習時間は限られた中での厳しいものでしたが、意味のない長時間よりも濃密な計画性のある3時間程度の練習は、とても有効的でした。時間を操るということは、2時間弱のソロリサイタルで必要不可欠な訳です。集中力と繊細さ、そして爆発的なエネルギーを空間に放出するための様々な練習方法を試しました。ある意味、ピアノに触れていない時間が私の表現、創造に大きく役立ったと思います。また、私の中に迷いが生じ、不安な時、同居人の練習から聞こえてくる音がヒントになることも沢山ありました。信頼関係も深くなり、結局2年目も共同生活をしたのでありました!! 同居人だけでなく、私はこの留学で多くの方々に出会い、とても環境に恵まれた生活を送ることができました。ジャンルを超えて多くの友人ができました。リスト音楽院にて師事していたファルバイ先生、ラントシュ先生はもちろん、オペラ歌手のユタ・ボコールさんとはバルトーク生家にて何回もコンサートをさせて頂きました。 2年目は文化庁海外研修員として留学させてもらいました。その中で指揮者のリゲティ先生と指揮者を目指すために短期留学しにきた日本の男性との出会いがあり、ピアノだけでなく指揮の勉強に参加することが出来ました。そしてクラリネット奏者のコハーン氏との演奏も、自身の音楽の幅を更に広げるとても良い機会となりました。これからも日本とハンガリーの交流を深める意味でも、大切にしたい演奏仲間です。彫刻家ワグナー・ナンドール氏の作品からは強いインスピレーションを感じ取りました。名前を上げたら終わりそうにありません。 私は帰国後に東京、宇都宮、北九州にてソロリサイタルを行う予定です。プログラムのほとんどがハンガリーの作曲者であり、どの曲も思い入れのある曲で構成しました。私の演奏が聴衆の心に残るよう、1音1音に想いを込めたいと思います。私の留学生活は、次のステップに進むための大切な時期でした。これからは社会から必要とされる演奏家、指導者として活躍できるよう、切磋琢磨したいと思います。ハンガリーでの1年間は、まさに私自身のラプソディーでした。
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