わが社はソフト開発会社。机とコンピュータさえあれば仕事ができる業種。工科大学に接する古いアパートのフラット2軒をぶち抜いたものが事務所になっている。築百年ほどの建物で、エレヴェータも乗るのが怖いほどの骨董品。事務所は日本流の2階にあるからエレヴェータを使う必要はないが、「誰が乗った時に落ちるのだろうか」と心配している。まさにロシアンルーレット。エレヴェータが落ちれば、建物も傾き、不動産価値は激減するだろう。
このフラットの前の持ち主はハンガリーで著名な弁護士のバーランディ・ピーテルで、後に法務大臣を務めた。現金で売却代金が欲しいというので、MKB銀行で落ち合い、1000万Ftを超える現金をビニール袋に詰め込んだ。鞄に入れるより、この方が安全なのだと言っていた。息子のゲルゲイはELTEの法学部を卒業し、現在、若くして社会党の幹部会員になっている。こういう末広がりの家族のフラットだと有り難がっていたが、如何せん、古すぎてリノヴェーションには限界がある。わが事務所に営業機能はないので町中にいる必要もないが、工科大学との関係からここに留まってきた。しかし、大学との関係も次第に変化し、地下鉄工事などで交通渋滞がひどくなったので、移転のチャンスを探っていた。
ハンガリー事務所の経費は円建てだから、ここ5〜6年、超円安状態で四苦八苦してきた。移転先を探し始めたが、100円=140Ftでは適当な物件は高すぎて手が出ない。あまりの円安でいったん移転計画を凍結した。
にわかディーラー
昨年夏のビッグマックPPP(ビッグマック価格で測った購買力平価)を見ると、対ドルでユーロは5割高、フォリントも3割高なのにたいし、円は対ドルで3割安。超円安状態だ。ここ数年は円建て経費の高騰で大分損をした。ところが、秋に勃発した「経済危機」で風向きが変わった。待ちに待った円高への転換が始まった。乗用車購入資金として貯めておいた虎の子の円貯金、事務所の改築用の増資円資金を使えるチャンスがきた。
円高に加えて、ハンガリーの不動産市場の急落である。これを逃す手はない。しかし、わが社は不動産会社ではないから、親会社が右から左へと円資金を流してくれるわけではない。グループ全体の経営が厳しくなる見通しなのに、「ハンガリーの不動産に投資する」意義を説得しなければならない。
こうして、昨年暮れから不動産の選定と増資による購入資金調達のスキームを練ってきた。1年以上も前から目をつけていた2〜3の物件は、これだけ時間が経っても売れ残っていた。他方で、年初からフォリント通貨の底割れが始まった。増資が決まった今年2月初めには、100円=260Ftを割る暴落状態になった。半年前には1000万円で1500万Ftしか換金できなかったものが、2600万Ftに換金できる。1000万円で実に1000万Ft以上もの差益がでる。不動産は億単位の物件だから、この差益は大きい。1億円の投資であれば、昨夏に比べて1億Ftもの差益がでる。
ところが、本社での増資決定を受けて当地で増資手続きしているあいだに、フォリントが値を戻し始めた。出資書類の翻訳や書類整備に時間がかかる。100円=230Ftのレートをベースに増資を決めたが、送金された資金が使える時には230Ft割れの状態になってしまった。
それから不動産購入代金の支払い期限まで、為替動向をにらむディーラー・モードになった。ロンドン市場が閉まる頃に、ニューヨーク市場が開く。深夜にニューヨーク市場の動向を見ながら、東京市場が開くのを待って、ドル、円、ユーロのクロスレートの動向とにらめっこする日々になった。世に為替専門家と呼ばれる人は多いが、誰も為替を確実に予想することはできない。一時の儲けに目がくらみ、為替や株のディーリングだけで生きていけると錯覚している若者は多いが、実際のところ、プロのディーラーでも為替を予測することはできない。株や為替の変動に賭けるのは、本質的にカジノの遊びと変わらない。
不動産購入代金の支払期限が近付いても、100円=230Ftを下回る水準で為替が留まっていた。売主に違約金を払ってでも円が再び強く振れるまで支払いを延ばすか、それとも増資分の資本不足のままで換金するかの決断に迫られた。最後のチャンスは3月末の円資金の戻りである。3月の決算に合わせて、円資金が日本に戻ってくる。そうすれば外貨売り円買いになるので、一時的にせよ、円高が進行する。事実、3月末の1日だけ、突然、円平価が対ドル、対ユーロで高騰した。ニューヨーク、東京での円急騰の流れを確認し、近所にあるMKB銀行に8時の開店と同時に駆け込んだ。レートを確認して、資金の6割をフォリントに換え、さらに午前中の流れを見て、午後に残りの4割を換金した。平均で100円=237Ftで換金することができた。資本不足を免れただけではない。100円につき7Ftの差益で不動産取得税(不動産価額およそ6%)の分を賄えることができた。翌日から円は再び230Ftのレベルに落ち、それ以後は200〜210Ft前後のボックス圏に留まっている。この1日だけの円の急騰がなければ、資本不足になっていた。
改築工事
新事務所は12区の丘の斜面に建てられた3階建ての邸宅である。1000平方米の敷地があり、どの階のテラスからも国会議事堂が正面に見え、そこから北東側のブダペストの街並みが町の境界まではっきり見える。私邸としては文句のつけようない物件だが、事務所としての利用には大幅なリノヴェーションが必要だ。物件引き渡しから、大規模な改築工事を進めることになった。
築10年に満たない高額物件だが、窓枠はハンガリーで一般的な木製、門塀の柵も木製、庭やテラスの手すりはただの鉄棒にペンキを塗っただけのものだ。木製の窓枠は見栄えは良いのだが、雨があたるとすぐにペンキが剥げ、10年もすると閉まりが悪くなる。定期的にペンキを塗り替え、手間暇かけて維持修理しないと、木製の窓枠は美観や機能を維持できない。同じことは柵についても言える。どの家もそれほど手間暇をかけないから、窓枠も柵もペンキが剥げて、見苦しいものが多い。鉄製の柵や手スリについても同じことが言える。以前から、ヨーロッパでアルミサッシのような窓枠やアルミ製の柵なら売れるといろいろな人に提言しているが、今でもそのような製品はハンガリー(ヨーロッパ)市場にない。もっとも、ステンレス製の手摺(てすり)を製造している会社がブダペストにあることは分かった。安くはないが、ベランダと庭の階段の手摺をすべて交換することにした。
我が家は10年ほど前に窓枠も塀の柵もすべてプラスチック製に替えた。ウィーンのバーデンを旅行した時にプラスチック製柵の存在を知り、ブダペストで販売店を探し当てた。ドイツの技術で製作されたライセンス製品で、15年保証が付いている。実際、今でも新品のように白く、手入れが不要だ。ところが、ハンガリーの友人にそのことを話すと、「プラスチックは駄目」という答えが返ってくる。コメコンのプラスチック製品は確かに貧弱ですぐに壊れたり、黄ばんだりする。ところが、先進国のプラスチック技術ははるか先を行っていて、電子部品や自動車部品の多くが硬質のプラスチック製品になっている。パナソニックがチェコでカラーテレビの工場を建設した時に、せめてプラスチック部品だけでも現地調達できないかと考えたが、規格にあう品質の製品がなかった。一言でプラスチックといえども、その品質にはピンからキリまであるが、一般のハンガリー人はまだそれを理解できないようだ。
我が家の柵を取り付けた会社に電話したが、すでに倒産していた。インターネットで探したが、ブダペストにはプラスチック製の柵を販売する会社がなかった。この製品のマーケットが広がっていないのだ。見つけた会社はバラトン湖西方の町にある会社。引き合いがあるから頻繁にブダペストに来るというので、この話はまとまった。
窓枠の総入替えは、やはり以前に我が家の窓を取り換えた会社に発注した。セーケシュフェヒールヴァールに製造工場をもつ大きな会社だが、ここも市場が広がらないのに同業者が進出してきて経営に苦労しているようだ。大小合わせて50枚以上の窓の交換である。発注から納入まで4週間かかる。これだけの数だと、トラックから品物を下すだけで、たいへんな仕事になる。
ハンガリーのプラスチック製窓枠市場には、3〜4社の外資系の会社がある。低級品から高級品まで選択できるが、まだまだマーケットが小さく、どこも苦労しているようだ。わが事務所の発注がこの会社の今年の最大の受注だったというから、やはりハンガリー市場だけを相手にした製造・販売ビジネスは難しい。
にわか棟梁
新築の場合には、棟梁の仕事もやってくれる建築会社に委託しなければならないが、改築工事にその必要はない。業者統括の仕事を委託すれば、工事費は確実に4〜5割は高くなる。だから私が棟梁となって、業者を選定し、仕事を発注することにした。
改築でポイントになるのは、大工と塗装職人。簡易壁の取り外しから、化粧板による補修、階段の新設、ドアの交換、床張り、窓枠補修など、有能な大工は改修工事においてキーマンになる。塗装職人も、外壁や内壁の塗装だけでなく、改修工事で壊される壁の補修が適宜、必要になる。
一番時間がかかったのは、窓枠の総入替え工事とその後の補修工事。これだけの数だと、窓の取外しと取付けだけでかなりの仕事量になるが、取外しによって壁が壊れたり、新しい窓枠と壁に大きな隙間ができたりするから、それを補修する工事が必要になる。窓の取付け業者は最低限の補修しかしない。だから、タイル業者、内装業者、石材業者に指示して、補修を進めるしかない。そして、最後の仕上げは大工に頼む。ふつうの大工はそのような仕事をしないが、私が信頼する若い有能な大工は万能選手として重宝した。
ここまでの仕事は外装的な部分だが、事務所の内装工事として大きいのは、LAN回線と電気回線工事である。床を上げて、その下にすべてのケーブルを埋め込む。回線の敷設が終わり、床上げして最後にカーペットを敷くまで、1ヵ月近い工事になる。ガスボイラーの交換と配管の新設工事も発注したので、毎日、4つ5つの業者が同時に仕事する状態が続いた。
ほとんどの業者は朝の7時あるいは8時から仕事する。朝のラッシュを避けて、時間が計算できる早朝から仕事を始めたいという。だから、業者の都合に合わせて建物の鍵を開ける。ついでに屋内外を良く見回って、仕事漏れがないかをチェックし、改装の進行状況に応じて、どの業者に何時どの仕事をやってもらうかを指示する。まさに現場監督、にわか棟梁である。
コネで見つける業者
大工、窓総取換え、塗装、タイル貼り、ボイラー取替・排水工事、電気配線、LAN回線敷設、床上げ、階段手摺、塀の柵交換、石材加工(階段)、テラスの日除け取付、エアコンの設置、机の設計・製作、会社看板製作など、実に15余の業者を相手にした。この三分の一はこれまでも仕事を依頼したことがある信頼できる業者だが、残りは新たに探し出した業者だ。多くは知人の紹介で関係をつけた。たとえば、友人のデ杯テニス選手の甥っ子で、私のテニスコーチのガールフレンドの弟が大工。このテニスコーチは別の女性と結婚したが、この有能な大工には事ある度に仕事を依頼している。タイル業者は隣家の工事で知り合った。この業者がたまたまステンレス製の手摺製造の会社経営者の名刺をもっていたので、連絡を取って製品を確かめに会社を訪問した。タイル材料はフィットネスクラブ知り合った業者の店で私が選定して発注したし、他の業者はインターネットで調べた。これだけの業者を相手にすると、現在のハンガリーの小規模事業者の仕事ぶりや業種ごとの状況が分かって面白い。しっかりと仕事をする業者は確実に増えている。期日や時間を守り、手抜きのないきちんとした仕事をしなければ、業者としての信頼は得られない。すべてではないが、ほとんどの業者に合格点をつけることができる。
今、改修工事の最終段階を迎えているが、ガレージのタイルをはがしたら、床のコンクリートに大きな穴が見つかったり、プラスチック製の柵を取り付ける段になって、3m近い高さのレンガの門柱が揺れ動くことが分かったり、改修工事を始めてから分かった不具合がたくさんある。前の所有者も建売物件として購入したからそこまで目が回らなかったのか、それとも不具合を修理する資金がなくて手放すことを決めたのか。どちらにしても、徹底的に改修するしかない。 |