ハンガリー人物シリーズ
ボールペンを発明したハンガリー人
ビーロー・ラースロー(Bíró László József, 1899-1985 年)
木村 香織
現在では世界中どこでも目にすることができるボールペン。文字を書くことが少なくなった現代人にとって毎日使用するものとは言えなくなったかもしれないが、それでもどこの家のペン立てにも必ず 1本はあるであろう。このボールペンを発明、実用化し世に送り出したのは、ブダペスト出身のハンガリー系ユダヤ人、ビーロー・ラースローであった(歴史上、初めてにボールペンのアイディアを出し特許を取得したのは、アメリカ人発明家のジョン・ラウドである。 1888年のことであった。しかし、彼の構想したボールペンは実用化には至らず、商業的価値を失い、彼の特許は失効している)。 ビーロー・ラースローは 1899年 9月 29日、オーストリア =ハンガリー帝国のブダペストで生を受けた。父親はシュワイガー・モーゼシュ・マーチャーシュ( Schweiger Mzes M.ty.s)、母親はウルマン・ヤンカ( Ullmann Janka)であった。一家は当時のユダヤ人家庭の多くがそうしていたように、苗字をハンガリー風のビーロー( B.r)に変更した。 1905年のことであった。 ラースローは初め医学の道を志すが、最終的にはそちらには行かず、ジャーナリストとなり、ブダペストの新聞社で働いた。また、その一方では画家としても作品を残すなど、多彩な人物であったようである。 ラースローは新聞社に勤めている時、新聞の印刷に使うインクが滲まず乾きが早いことに気づき、これを仕事道具である万年筆に使えないかと考えた。しかし、万年筆に使うにはインク自体が固すぎて、ペン先まで下りてこなかった。そこで科学者であった弟と共同で、新しいタイプのペンをつくろうと考えた。ラースローの頭の中には、ペン先の中に回転するボールを取り付け、回転と共にインクが出るようにするという画期的なアイディアがあった。しかし、ペン先用のとても小さいボールには、高精度な加工・固定技術が必要であった。また、粘度の高い(しかし高すぎない)インクの開発には苦労した。ラースローは 1931年、ブダペストの国際博覧会において初めてその完成品を出品することができた。 私生活では 1931年に 9歳年下のエルジェーベトと結婚し、娘、マリアナ( Mariana)をもうけた。ボールペンの改良を進めたラースローは、 1938年にブダペストでボールペンの特許を取得しようと試みるが、時は 1938年、ハンガリーで「第一次反ユダヤ法」が制定された年であった。ユダヤ人に対する締め付けが厳しくなってきたラースローは妻、娘そして、弟のゲーザとともにハンガリーを離れることを決意しパリに移った。そして同年、ラースローはパリでボールペンの特許を取得した。 |
第二次世界大戦が勃発すると、パリもユダヤ人にとっては安全な地ではなくなった。 1943年、ヨーロッパからアルゼンチンに渡る機会を得て、亡命した。アルゼンチンに渡ったラースローはさらにボールペンの開発を進め、アルゼンチンでも特許を取った。「 Biro Pens of Argentina」という会社を設立し、「 birome」という商品名でボールペンを売り出した。また、その後すぐにイギリスがボールペンの使用権を取得し、イギリス空軍向けのボールペン生産に乗りだした。ボールペンは高度の高いところでは万年筆よりも書きやすかったのである。 フランスの文具メーカー、ビック社( Bic)がボールペンの特許を 2万ドル(現在の価値で約 23万ドル)でラースローから買い取った。その後、世界中の会社がボールペンの生産に乗り出し、ボールペンは 1960年代には世界中に広まっていった。ボールペンのことを「ビーロー( Biro)」と呼ぶ言語もある。 ボールペンの発明という功績が大きく、彼の人生における他の部分は見落としがちであるが、彼はその生涯をほとんど発明にささげ、数々の実用品を世に送り出した。彼が取得した特許の数は 300にものぼる。その一部を紹介すると、スチーム洗濯機、電磁伝送装置(リニアモーター)、フェノール樹脂の製造方法、脱臭剤、印刷ミラーなどである。 ビーロー・ラースローは 1985年 10月 24日、アルゼンチンの自宅で息を引き取った。ビーロー・ラースローの功績を称え、彼の誕生日である 9月 29日はアルゼンチンでは「発明の日」と定められている。また、 Googleはビーロー・ラースローの生誕 117年目の年である 2016年 9月 29日、Google Doodle(Google検索ページのロゴ)を彼にちなんだものにした。 |