大学における体育会

 大手の私立大学はどこも体育推薦入学制度を保持しており、大学の知名度を上げる手段となっている。人気がある野球やサッカー、あるいはラグビー、それから箱根駅伝などメディアへの露出度が高いスポーツは、推薦枠も大きい。人気スポーツの1 年間の推薦入学枠は1 チームを形成できるレギュラー人数を超えるのがふつうで、レギュラーになれない多数の体育推薦入学者が洗濯や炊事、球拾いの雑務要員として合宿生活や日頃の練習を支えている。合宿所では最上級生が「天皇」あるいは「大将」、新入生が「一兵卒」と呼ばれる軍隊的で封建的な関係が支配している。部全体が監督-コーチ-選手間の上意下達のシステムから構成されているだけでなく、学生の合宿所そのものも、一つの閉じられた封建的関係で構成されている。
 私立大学の運営は教育や研究事項に責任を持つ教授会や学部長会議と、大学経営に責任をもつ理事会(事務組織の統括)の二つの系列に分かれている。体育推薦枠の扱いは理事会マターであり、教授会や学部長会議などが関与できることはほとんどない。学部長会議は、理事会あるいは体育部関係者が集まる会議で決定された各部の推薦枠を承認するという形式的な機能を受け持たされるだけで、教授会にいたってはその報告を受けるだけである。
 一応、各体育会加盟部の部長には教員が名を連ねているが、たんなる名誉職で、OB会や祝賀会で挨拶する程度の役割しか負っていない。体育会各部の監督やOB 会がすべてを取り仕切っている。体育推薦で入学を決める権限も各部の監督やOB が握っており、ここに教授会が関与することはない。学部長会議で形だけ承認された体育推薦の総枠が、各専門学部に配分され、教授会はその枠を承認し、その枠内で推薦された学生の入学を承認するだけである。
 体育推薦で入学した学生が、各体育会の所属部とどのような約束を交わしているか、教授会は何も知らない。ほとんどが、体育会を辞める場合には自主退学することを入部(入学)の際の誓約書にしているようだが、そのような書類は教授会に提出されない。すべて体育会の各部で内部的に処理され、公になることはない。
 このように、私立大学における体育会は一つの独立した世界であり、各部の運営は推薦入学利権をもつ権力組織になっている。

体育推薦制度がブラックビジネス化

 体育推薦入学制度は新興私立大学が編み出した学生募集のための宣伝営業であり、体育会運動部はいわば私立大学の宣伝営業部の役割を担っている。学生の自主活動でも何でもない。スポーツを通して大学の名が全国に知られ、入学志願者が増え、入学者が確保できれば、大学経営の財政基盤を強めることができる。
 ところが、体育推薦制度のお陰で大学知名度が全国区になり、大学経営が安定すると、体育推薦の営業活動で成功した現場の監督や責任者が、大学経営に参画することになる。運動部の監督という実績だけで、教育活動に従事したこともない者が、大学経営の責任者になる。こうして、運動部出身者が大学経営そのものを支配することになれば、大学は教育・研究の場ではなく、スポーツを売り物に、学生を呼び込んで受験料や授業料で稼ぐビジネスに転化してしまう。入学志願者を増やし、入学者を確保するための体育推薦入学制度や体育会運動部という存在が、宣伝手段を超えて、大学の主要ビジネスに転化すると、体育会関係者が大手を振って大学を支配することになる。そして、このレベルに到達すると、政治家やいかがわしい人物が大学幹部と交遊を深め、学外の闇権力との繋がりが生まれる。
 こうなると、大学はもうその本来の理念を失い、たんなるブラックビジネスに転化してしまう。もちろん、理事会が体育会出身者によって占められても、それですぐに大学が本来の理念を失うわけではない。大学の教育や研究を行うのは教員(教授会)であり、理事会の意向とは無関係な一般学生たちがいる。しかし、理事会が強い大学では教授会の力は相対的に弱く、教育・研究以外の事項で発言する力や権限がない。大学によっては、教授会の権限そのものが最小限に抑えられ、教育や研究内容についても理事会が口出しできるところもある。

体育会グループが事務組織を支配

 大学の先生はお世辞にも経営能力があるとは言えない。予算や事務人事にかかわることに何の力も発揮できない。だから、私立大学の経営は理事会を頂点とする事務組織が担っている。体育推薦制度が強固な大学では、この事務組織を担っているのが、体育会出身者である。
 私立大学にとって、体育会出身者が事務組織を担うことには多くの利点がある。一つは大学への忠誠心(大学ナショナリズム)である。有能でも他大学出身の職員は大学への忠誠心が希薄だから、なるべく多くの生え抜きの職員をとる傾向が顕著である。さらに、体育会出身者は上下関係の命令で動かすことができるから、「無駄な」議論を省くことができる。
 他方、この利点は欠点に転化する。事務能力より上下関係による親分子分の関係を職員組織に持ち込めば、革新的な大学経営の障害になる。軍隊的な関係が支配するところに、創造的な大学経営を展開する力はない。
 もちろん、大学によって、体育会出身者を優遇することなく、能力本位で自大学出身者を採用しているところもある。教授会と理事会の力関係によっても、大学経営のあり方が大きく異なる。
 たとえば、法政大学のように教授会組織が強い大学では、学長が理事長を兼務し、さらに教員が主要な常務理事を担当して、事務組織が独立権力を形成するのを防いでいる。しかし、民主的な運営を維持している法政大学でも、体育推薦入学制度は教授会が介入することができない聖域であり続けている。事務組織における体育会出身者が一つの利益集団を形成している以上、それと妥協しながら大学を運営する必要があるからだ。
 これが日本大学のように、事務組織に比べて教授会の力が弱く、体育会出身者で占められる理事会が圧倒的な力をもっている大学の場合には、まったく違った組織になる。創立者が経営を掌握している地方の大学では、教員採用に当たっても、理事会が口出しして、教授会の自治や権限が骨抜きにされている大学もある。

体育推薦の弊害

 体育推薦で入学した学生のほとんどは授業に出席せず、合宿所で1 日の生活を送っている。これで授業の単位を修得することはできない。だから、体育会からプロスポーツに進んだ選手のかなりの部分は、卒業単位を取得することなく、4 年で退学している。しかし、これも大学によってかなり様相が異なる。
 理事会が強いところでは、教授会に暗黙の(あるいは明示的な)圧力がかかり、体育会所属学生に合格点を与え卒業させている。他方、教授会が強いところではそのような介入は奏功せず、単位を修得することなく卒業することになる。体育会系学生の答案用紙はほとんどが白紙で、所属の体育会名が書いてある。試験が近づくと、担当教員に贈答品が届くこともある。また、顧問の教員に泣きつき、顧問が同僚教員に懇願することもある。定期試験に替え玉を出す事例も後を絶たない。
 スポーツが強すぎるのは大学教員としては困る。優秀な学生がそのような大学を避けるからだ。法政大学に勤務していた時など、「飯田橋体育大学」と揶揄されることもあった。古株の教員は大方体育会の制度に好意的だったが、若手教員は体育推薦制度に批判的だった。どうしたら体育推薦枠を減らすことができるか、その制度に風穴を開けることができるかを議論していた。そうすれば、優秀な学生を増やすことができると考えていた。体育推薦入学者に面接試験を導入したり、入学試験の点数を提出させたりして、教授会が入学審査に関われるような改善提案もした。しかし、何十年と続いてきた制度を変えるのは至難の業であった。
 立教大学の経済学部では、1980 年前後に体育推薦枠を廃止した。もともと、体育会の権力が強くないところに、良識的な教授陣が断固とした決意を示したのだ。学力が不足する附属高校からの入学者についても、教授会は厳しい態度を打ち出した。

学校スポーツが盛んな日本、体育会が存在しない欧州

 私立大学で体育会が一つの権力を形成している実態を変えることは、ほとんど不可能に近い。これは日本における学校スポーツのあり方と密接に関係している。
 欧州では大学を含め、学校で部活動が行われることはほとんどない。自主的なサークル活動が小規模に行われることはあっても、学校組織が関与している部活動は基本的に存在しない。大学を含む学校は勉学の場であり、スポーツをやりたい人や他の趣味に精を出したい人は、それぞれ学校外のクラブでやれば良いと考えられているからである。素人の先生が他人の趣味やスポーツ活動に関与する必要はない。専門のスポーツクラブには専門のコーチがいる。そこで専門的な指導を受ければ良い。
 ところが、日本では中学校から部活動が盛んで、否応なしに部活動への参加が義務づけられ、専門でもない先生が私的な時間を削って部活動に献身している。それが高じて部活動が生きがいになる先生もいるようだ。こういう本末転倒な部活動の延長線上に、大学の体育会が存在すると考えれば、不合理な大学体育会が厳然として日本に存在することも理解できる。
 だから、私立大学の体育推薦入学制度の改革は簡単でない。

改革の道

体育推薦制度が蔓延したことによって、一部の大学では大学本来の道から外れ、体育推薦制度がブラックビジネスに転化している。社会はこれを厳しく批判しなければならない。私立大学における体育推薦制度や運動部のあり方について、抜本的な改革を進めなければ、日大アメフト事件が提起している問題の解決にはならないだろう。運動部の運営は、少なくとも以下の諸点で改革が必要である。
 一つは、推薦枠の最小限化と推薦の透明化である。レギュラー人数の何倍もの推薦枠は無駄である。
 二つは、固定した合宿所の廃止である。軍隊的規律が支配するような合宿生活は部の発展によっても選手個人の能力向上にとっても、良いことは全くない。
 三つは、運動部指導者の使命と指導について、明瞭な指針を立てることである。支配-従属型の指導を排除し、また特定の運動部の監督が大学の経営に従事することも禁止すべきだろう。
 四つは、教授会が体育推薦枠の漸次的削減と推薦入学への教授会の関与を求めるべきである。教授会の関与がない所に不明瞭な力が加わり、それが体育会の独立権力化を助長する。必要に応じて、推薦入学者にたいして、社会的常識や基本的学力を問う試験なども実施すべきである。体育推薦制度を大学教育から隔離された租界にしてはならない。