指揮台でベートーヴェンが舞う「第九」を聴いた。オケメンバーが登場し、続いて合唱団が席に着くとマエストロ小林が舞台に現れた。指揮棒を構えるとオケだけでなく、客席の視線もその棒先に集まっているのが感じられた。 日本では年末によく演奏されるお馴染みの「第九」だが、交響曲にして合唱付というのは珍しい。ドイツの詩人シラーの詩「歓喜に寄す」にいたく感動し生まれたのが、この「第九」だという。第三楽章までがオーケストラによる演奏で、その後間髪を入れずに最終章合唱付第四楽章が始まる。「おお、友よ!このような調べではない!そんな調べより、もっと心地よく歌い始めよう、喜びに満ちて」。ティンパニの轟きに導かれて背筋がぞくっとしそうなバリトンソロの歌いだしである。そこに男声合唱が重なり「歓喜の歌」が始まる。 第一次世界大戦が終結となった年の暮れ、ヨーロッパの人々の新年への願いは平和であった。ライプツィヒにて12月31日の午後、100人の演奏家と300人の歌手によってベートーヴェンの「第九」は演奏され、その伝統は受け継がれることになった。そして、統一ドイツでも毎年の大晦日の午後、シラーやベートーヴェンが人類に望んだ平和を歌い上げるこの「第九」が演奏されることになったらしい。
14歳の小林少年はサトーハチローの詩「藤棚の下に」をピアノ曲にした。この曲を20周年祝賀パーティで歌ったソプラノ歌手パスティ・ユーリアと30周年コンサートで歌った坂井圭子が、ドュエットで披露した(4月5日日本大使公邸レセプションにて)
私がソプラノソロを歌ったのも12月だった。日本で年末に「第九」が演奏されるようになった背景を調べてみた。戦後まもない頃、オーケストラの収入が少なく、楽団員が年末年始の生活に困る状況を改善するため、合唱団も含めて演奏に参加するメンバーが多く、しかも当時必ずお客が入ると言われた「第九」を現在のNHK交響楽団が年末に演奏するようになり、それが定例となったことが発端とされるそうだ。 日本では、年末の第九合唱人口が20万人とも言われている。日本全国あちらこちらで、老若男女が練習に励み、舞台の上で大規模なオーケストラと共演し、一糸乱れぬ演奏の達成感に喜びを感じるのだと思う。まさに、歓喜の歌である。実際歌った方はご存知かもしれないが、ベートーヴェンは合唱もソロパートもオーケストラの一部として作曲したのではないだろうかと思う。まるで弦楽器や管楽器を鳴り響かせるような音符の羅列を、つばを吐き飛ばすようなドイツ語の発音で歌うというのだから、声楽の面から見るといささか疑問符がつく。しかし、そんな難曲を乗り超えて歌ってみせようとする大合唱からは、みなが一つになれるその喜びに勝るものはないという思いを聴き取ることができる。頭の中をグルグル回り続けるようなあの印象深い旋律を腹の底から歌い上げるのは、大合唱の醍醐味なのだ。 ハンガリーデビュー40周年の今年、マエストロ小林は、リニューアルして輝きを増したリスト音楽院の大ホールで、リスト音楽院オケと合唱団を指揮された。幸い私はステージ近くの席で鑑賞していたため、炎のマエストロが、いや、ベートーヴェンという表現が相応しいと思うのだが、冒頭からオケとともにうなる声を聴いた。指揮棒の動きと共に息遣いを感じ、時にするどく向けられる眼差しや時に温かく微笑むマエストロにメンバーそれぞれがくいつくような表情を返している。間近で見たこのやりとりに、私は夢中になった。時折、すべての響きを会場の一番奥まで届けるかのように、マエストロは客席のほうへと遠く高く手を伸ばされる。その顔はとても柔和で、私自身も音楽を身体全体で感じることができた。 ソリストと合唱が一斉に立つと、いよいよ「歓喜の歌」である。幾度となく歌ったことがあるので、一緒に心の中で歌ってしまう。恐らく、ご自分で歌も歌われるマエストロは、合唱団の心もわしづかみにされたのではないだろうか。高音での長いフレーズも途切ることなく、指揮棒に導かれるように歌いつながれていく。指揮台にあがったベートーヴェンは、髪を振り乱し、燕尾服を跳ね上げながら、指揮台の上で何度も飛び上がるかのように指揮棒を振っていた。ソリストのみで歌う最後のゆっくりした部分が終わると合唱とオケは速いテンポのフィナーレに突入した。心を一つにした演奏者全員が、歓喜に満ちた表情で力強く終焉を迎え、タクトが振り下りたその時である。なんと指揮棒の先の部分が宙を舞ったのである。舞台と客席の人々の高揚した思いを一心に受けて飛んでいったに違いないと私は思わずにはいられなかった。
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