野辺地から単線を小一時間のんびりと走り、簡素な駅に降りると、目の前に広がる残雪の街に、ふっとSalgotarjanの風景が重なった。
私はチェルノブイリ原発事故(広島型原爆の500倍の放射性物質を放出した)の影響冷めやらぬ1986年に着任し、民主革命を挟んで1993年まで7年間ブダペストに駐在し、ハンガリーの素晴らしさに魅せられた者の一人です。その後、短い日本滞在を挟んでロンドンとアテネに合計12年間駐在することになり、漸く昨年の2月にデモの荒れ狂うアテネから帰国したのですが、それも束の間、4月から下北半島で風力発電所の操業・保守の仕事をすることになりました。太陽一杯のエーゲ海から吹雪の津軽海峡への転進で、生活環境は激変。しかも、「♪北へ帰る人の群れは誰も無口で〜ぇ」だから東北の人は取っ付きにくい、という前評判を聞いていたため、戦々恐々としながら移り住み、それでもアッと言う間に10カ月が経ちました。以下は独断の下北短信です。
むつ市の風景
私の住んでいるむつ市は本州最北端の市、下北郡の中核都市になります。先ず街を一回りして驚いたのは、ここで目につく瀟洒な建物の多くがパチンコ屋、しかも12件ほどある店の広い駐車場はほぼ満車です。
どうやら、むつ市に隣接する東通(ひがしどおり)村や六ヶ所村には、原発が1基運転中、1基が建設中、核燃料リサイクル工場と中間貯蔵所が各1か所建設中(一部稼働)で、多くの補償金がばらまかれたのですが、新居を建て新車を購入した後、一家総出でむつ市まで来てパチンコ屋に遊んだ人が結構いたそうです。こうしたおカネが身に付いたかどうかわかりませんが、人口8,000人の東通村の財政は道路・村役場・学校・消防署など箱モノを作りすぎて既に厳しくなっているようです。ここでは、教育・老人介護・医療というソフトの分野でも、小中学校の統合と最新視聴覚設備やITの導入、英語教育を初め教育水準の高度化、デイケアセンターや救急体制の整備、最新鋭の医療設備と質の高い医師の採用など、新しい試みを進めていますので、原子力関係の収入が先細りになることにより、いろいろな影響が出ないことを祈るばかりです。リサイクル工場の方は技術トラブル続きで操業開始は既に十数回延期され、既に当初予算の3倍である2.2兆円の資金がつぎ込まれています。また、リサイクル工場の遅れで溜まった使用済み核燃料を一時的に保管するはずの中間貯蔵所も、結局恒久ゴミ捨て場になるとみられています。この先原発施設のどれかが事故を起こせば、誰もが一蓮托生の運命。しかし、一次産業以外に目につく産業が殆どなく、人口も少ない為、「こうなったら何でも来い」と達観している人が多いようです。
海の幸を求めて
こちらに来て最初に思惑が大きく外れたのは、スーパーマーケットで地元の山海の幸が見つからなかったこと。インド洋産トロや広島県産の牡蠣まであるのに、です。また見つけたとしても価格は東京より高め。生活に関わるので調べてみると、それぞれの漁村にある漁業協同組合の管理下で、採れた魚は札幌など大都市市場に直行してしまい、地元は素通りしてしまっているのです。以前は港まで行けば市民は採れたての魚介を入手できたそうで、地元消費者は市場経済の浸透によって割りを食う側に立ってしまったと言えそうです。1980年代のハンガリーでも野菜などはハードカレンシー獲得のために西側に輸出され、ブダペストにある外資系ホテルのレストランでさえ冬になるとサラダは全く姿を消していました。
しかし、そのうち地方の農協や農家などに行くとビックリするような美味しい野菜が豊富にあることが分かり、あるところにはあるなあと思ったものでした。こちらでも幸いに漁師さんと知り合いになり、季節の新鮮な魚介が手に入るようになりました。そのお陰で、魚を捌いたり、手早く白子やウニを取り出すことができるようにもなりました。尤も、昨年は地球温暖化の影響なのか、海水の温度上昇と度重なる時化のため一年間を通じて水揚げは例年の半分近くで、漁村にとっては極めて多難な年でした。
ゆったりの生活
どの地方でも見られますが、下北でも住民数百人規模の集落があちこちに点在しており、そこには同じ苗字(二本柳、角本、三国、川口、菊池等)の家が何軒もあります。そして、むつ市の夜を僅かに彩るスナックのママはどこそこの部落の誰それの嫁であり、給仕をしてくれる娘さんは高校の同窓生、あそこにいるお客は近所の寺の住職さんという具合で、店内は明るく和気あいあいとしています。また、私と一緒の事務所で働いている若者たちも少なからず同級生か先輩後輩と結ばれており、従って、亭主が街のどこかで何かをするとその日のうちに奥さんの耳に間違いなく入っていますので、少なくとも市内では悪いことはできません。警官だって知り合いをスピード違反で取り締まるのは気不味い、ということを知っているせいか、運転する方も余りスピードを出しません。全てがゆったりと調和と均衡がとれて動いている感じです。
生活とともにある伝統芸能
年末に近づくと、何とか交響楽団によるベートーベンの・・・、というのが大文化都市の定番ですが、ここ下北ではホテルで流行歌手によるデイナーショーが一般的です。そこでは、歌が気に入ったり、興に乗ると「おひねり」が登場します。勿論、投げたりはしません。舞台の上に置いて来るか、直接手渡します。歌手の方も心得たもので微笑んで一礼すると、さっとポケットに入れます。その様子は、ブダペストのレストランでジプシーの演奏にチップを渡す場面を想像していただければ遠からず、です。この習慣には歴とした根拠があります。東通村の各集落には、大漁・豊作を祈って守り神に奉納する「能舞」という伝統芸能が連綿として(最古の記録では500年前と言われ、演目は20近くある)受け継がれています。一時は継承する若者が少なくなり断絶の危機にありましたが、現在はどの部落でも青年部を中心に厳しい稽古を行っており、立派に復活・継承されています。昔から、上演のあるたびにかなりの額の「おひねり」「お花」が納められてきましたが、今では保育園児のお遊戯発表会にも登場する場合があるところを見ると、郷土文化を守るためだけではなく、地域の相互補助的な役割を負うているのかもしれません。私も最近地元での集まりに行く時は、必ず内ポケットに祝儀袋をいくつか忍ばせるようになりました。
自然と人情
さて、時折我が家の裏庭には雉やカモシカが訪れ、郊外ではクマにも出会うことのある、四季の変化に富んだ自然の素晴らしい下北ですが、地面から口をめがけて吹き上げる吹雪に遭うと、息がとまるほどで、冬の厳しさはハンガリーに引けを取りません。しかし、妻が無謀にも後輪駆動車で出かけて雪でStuckしてしまった時、近所の奥さんが重装備にシャベルを持って駆け付けてくれたり、また、夜中に降った積雪で辺り一面が優雅な流線型の銀世界に変貌し、感激して写真など撮っていたら、休日だというのに知り合いの人がショベルカーで救出に来てくれたり、北国の怖さを知らぬ暢気さに笑われましたが、こちらの方たちの人情に心はぽかぽかと温められています。
歴史の中のむつ市
最後に、むつ市には日本三大霊場の一つである恐山菩提寺があります。市内から車で30分ほど、深い山中にあり、参道の両側には木々が鬱蒼と生えており、ところどころに小さなお地蔵さまが置かれていて雰囲気は十分。夜、急カーブのところで自動車のヘッドライトに突然浮かび上がるので、ドキっとします。今でも高校生などは夜肝試しをするそうです。また、むつ市には幕末の歴史もあります。会津戦争で敗れた旧会津藩士とその家族17,000名は、再興を許されて下北に農業の夢を託し、陸路・海路を通じて入植していったのですが、そのうち海路を採った人たちがむつ市大湊に上陸しました(1870年)。斗南(となみ)藩を立て、艱難に耐え奮励したのですが、気候風土の余りの過酷さに加え、廃藩置県(1871年)で藩主が東京に移らざるを得なくなると希望を失い、僅か1年で多くがこの地を去ったと言います。このあたりの厳しい生活ぶりは、私が一番印象に残っているNHK大河ドラマ「獅子の時代」(1980年)にとても良く表現されています。
と、こんなに刺激的で楽しい生活が、本州北端にあります。是非一度「来(か)さまい」。3月13日
追記
此の原稿を出した後に東日本巨大地震が起こり、上で触れた原発についての危惧が具体化してしまいました。人類が核を制御しきることはなかなか難しく、果たして本当に想定外のことだったと言えるのか今後の検証を待つしかありませんが、一つ対応を間違えると一気に危険度が高まります。東電福島原発の現場では、命のリスクを顧みず踏みとどまって作業を続けている方々がいるとのこと、何基かをおしゃかにすることで最悪の事態が回避できれば、それこそ不幸中の幸いです。また、上では「達観している」と記しましたが、こうした人たちは変わっていかざるを得ないでしょう。
むつ市では震度6−7の揺れが何度かありましたが、殆ど被害は出ませんでした。車で2時間もかからないところの市町村で多くの方(3月13日現在、死者行方不明1700名だが、1万名超は確実と言われている)がなくなられていることを思うと、ひしひしと幸運を感じざるを得ません。私のいる事務所は津軽海峡に面しているため、地震を感知後、直ちに向かいの山に退避しました。上から海岸線を見ると、潮が異常に引いた後、続いて妙に膨れ上がった波がひたひたと押し寄せるのが分かりました。それでも此のあたりでは精々高さ2m位ですので、10mを超える津波の持つエネルギーの破壊力というのは想像を絶し、恐ろしくなりました。海上を望むと船が何隻も沖にでています。漁師にとって船は命です。船に駆け込み、津波が大きく立ち上がる前にできるだけ沖に向かおうとしているのです。村では春の大祭が中止になりました。秋の祭りができるよう、日本はなんとしても復興していかねばなりません。私は、休日にもかかわらず、83基ある風力発電機の早期復旧に努力している若い人たちの様子を見て、大丈夫だと確信できました。また、これまで知り合った海外の友人たちから沢山の励ましのメールを頂き、日本は一人ではないと感じました。此のエッセイを読んでいる方の中には親類や知人が被害に遭われた方がおられるのではないかと思います。遠くにおられて歯がゆいかもしれませんが、復興は長いプロセスになりますので、ひとりひとりが忍耐強く支えていければと思います。日本ガンバレ! |