オペラが好きだ。それこそ三度の飯より。日本にいたころは食費を削って、海外有名オペラハウスの来日公演に足を運んでいた。オペラが目的で海外旅行にも行った。チケット発売開始時間には家族全員から携帯電話を借りて電話をかけまくり、ようやくつながると歓喜に打ち震え、何千、時には何万円も惜しみなく支払った。文献を漁り、スコアや対訳を読みながら音源を聴き、DVDを観て備えた。オペラは私にとって、そんな特別な体験だった。 それがいまや、オペラは私の日常である。通い詰めて、スタッフに顔を覚えられているほどだ。ハンガリー国立歌劇場には、オペラを日常的に通いやすい特徴がある。三つの「世界一」と言ってもよい。一つめは価格。ほとんど自動販売機で飲み物を買う程度の値段で学生席が買えるのは、世界中でおそらくここだけ。二つ目は待ち時間。他の伝統的なオペラ座のように、立ち見券を求めて何時間も極寒のなか並ぶ必要がない。開演5分前にボックスオフィスに行けば間に合う。そして三つ目は稼働率の高さ。ほぼ毎日オペラ、バレエ、コンサート、子供向けプログラムと様々な催しがある。 日本とのいちばんの違いは、音楽が日常生活のなかにある感覚だ。聴衆はあたりまえのように会場に集まり、あたりまえのように聴く。演奏者もまた、あたりまえのようにステージに上がり、あたりまえのように演奏する。もちろん、およそあらゆる芸術体験がそうであるように、音楽もまた一回性の体験であり、その意味では非日常的である。だが、その神秘性が失われることなく、生活のなかに音楽があるということ、これが伝統というものかと思った。 私が伝統と言うとき、もうひとつ意味を持たせたい。それは記憶の継承ということだ。 記憶の継承の方法のひとつは、ものを残すということだ。例えば建築物としてのオペラ座は、ハプスブルク家盛衰の記憶を、リスト博物館の展示品は作曲家の生活の記憶を、今日まで伝えている。ブダペストには、このようなものがいたる所にある。町中に、リストやバルトークはもちろん、マーラーやブラームスの記憶がある。 ものの記憶は、ものそのものが残る限り半永久的にある。だが、ものでは伝えられない記憶ももちろんある。それは、人から人へと直接伝えてゆくしかない。ものと違って、こちらは保持者が世を去れば、その記憶も消えてしまう。だから、常に伝え続けなければならない。いうまでもなく、演奏はこちらに属する。 例えばオペラでは、1858年の設立以来、マーラーやクレンペラー、フリッチャイら、偉大な音楽家たちが指揮台に立ってきた。彼らの記憶は団員から団員へと、脈々と受け継がれている。コンチェルト・ブダペストでもハンガリー放送響でもない、まぎれもないオペラの音がピットから立ちのぼるとき、私はこの150年引き継がれてきた記憶に、思いをはせずにはいられない。 リスト音楽院に入学してまもなく、ウェシェレーニ校舎内のとある展示を見たとき、同じような感動を覚えた。それはリスト音楽院の系譜図だ。そこには設立当初から今日にいたるまでの、数多くのリスト音楽院の指導者たちが書かれている。右端には現役指導者の名が並び、もちろん現在私が師事しているグヤーシュ・イシュトヴァーン、レーティ・バラージュ両教授の名もある。そして、系図を左にたどっていくと、やがて一点に収束する。フランツ・リスト=リスト・フェレンツその人である。リストが過去の偉大な作曲家であることは疑いない。リストは演奏=記憶の継承のなかで生き続けている。 よく、人は二度死ぬ、と言われる。はじめは、その人が息を引き取るとき。二度めは、その人のことを覚えている人が、誰もいなくなってしまったとき。私はフォークナーの小説を思い出す。主人公の医大生は、自分の過ちから恋人を死なせてしまう。絶望した彼は、それでも、彼女の記憶を少しでも長くこの世にとどめておくために、苦しみの中で生きることを選んで小説は終わる。 Between grief and nothing I will take grief. The Wild Palms かなしみと無の間にあって、僕はかなしみを選ぼう。 『野生の棕櫚』 これほどの悲劇性はないけれども、記憶とともに生きるということは他のだれかを背負うことである。それに加え、音楽家という生き方を選択することは、相当の覚悟がいることだ。端的に言ってしまえば、音楽家なんて食える職業ではない。たくさんの娯楽をあきらめなければならない。一生勉強を続けなければならない。シューマンの母親は息子を法律家にしたいと望んでいたことなどを読むと、今も昔も変わらないなと思ってしまう。それでも、音楽の抗しがたい魅力にさらわれて、偉大な音楽家たちの記憶をとどめておくために、彼らを生き続けさせるために、いばらの道を選択した先人たちに最大の敬意を表したい。いまなお、ブダペストにリストの息吹があるのは、あの系譜に名を連ねた音楽家たちのおかげなのだから。 私たち日本人留学生に責務があるとすれば、それはその記憶を日本に持ち帰り、そこで伝えていくことだと思う。日本でそれをすることは、ヨーロッパにおいてほど容易ではないだろう。200年、300年前の地球の反対側の記憶が生き続けるには、時間も距離も離れすぎている。けれど私は、それが人類史において最も尊く美しいものだと確信している。それは一生を賭するに足るなにかだ。私たちは、私たちなりのやり方を探さなければならないだろう。いま、リストやマーラーが生き続ける地にあって、彼らのかけがえのない記憶のために、「僕は(喜んで)いばらの道を選ぼう」とそう言える人間でありたいと思う。
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