「飛行場からすぐラーコシュケレストゥールの共同墓地への道を彼は進んだ。何故なら、日本の慣習により、コズマ・イシュトヴァーンの墓前へ挨拶することを欲したからである。1964年、東京オリンピックの時、ヤマモト・タカオとこの巨人は友情を結んだ。この友情ゆえに一度、ブタペストを訪問することを約束した。ただ、コズマとはすでに会うことはできなかった・・・」(ハンガリーの新聞「ネープ・シュポルト/人民スポーツ」より)。

 高校教師であった父、故山本崇夫はレスリング・柔道の指導者でもあり、アジアで初めて開かれたオリンピックに補助役員として参加し、高校時代から心を寄せていたハンガリーの選手団付を希望しました。グレコローマン・ヘビー級でレスリングの王者コズマ(1964年東京と1968年メキシコの五輪王者)との親交から文通が始まり、独学でハンガリー語を勉強しました。当時は文法書が1冊しかなかったため、英語やドイツ語で書かれた辞書を入手し、上京した折にはハンガリー大使館の通商部で半年分溜め込んだ疑問点を教えていただいたそうです。コズマからハンガリーに誘われ、再会を心待ちにしていましたが、1970年4月に突然の悲報が届きました。彼はホンヴェード通りでバスと激突し、30歳の若さで亡くなりました。ミュンヘンに向けて3個目の金メダルの獲得を期待されていた矢先のことでした。
 冒頭の記事はコズマ他界の翌年、コズマから父の名前を聞いていたブダペストのスパルタクス・スポーツクラブの力添えで、柔道コーチとして招待された時のものです。当時のスパルタクスは靴商・毛皮商の組合で、柔道・サッカー・レスリングなど14種目のスポーツクラブには約1000人の部員が所属していたそうです。
 ハンガリー柔道の歴史は長く、日露戦争の勝利は柔道の気力に負うところが大きいと考えたセイミアー氏は嘉納治五郎氏に依頼し、佐々木吉三郎氏が1906年に指導者として訪れたことで第一歩を踏み出しました。スポーツが多くの人にとって二次的なものとなった第二次世界大戦中でさえ、柔道を愛好したハンガリー人は毎年大会を開催しました。「更に本場の柔道を感じ、見たいと望んでいたが、政治的な環境と経済的な制約により実現が難しかった」と当時のスパルタクスの監督は述べています。
 父はセグー・アンドラーシュ氏(ジャーナリスト)の家に滞在し、ナショナル・チームを指導しました。柔道に対する尊敬と日本で柔道を学びたいとう希望が強く、真剣に稽古に取り組んだそうです。多くの友人やスポーツ関係者と親交を深め、帰国後は所属する群馬県柔道連盟が中心となって準備を重ね、1973年にスパルタクスの柔道チームを招待することができました。日本柔道が伝えられてから70年、ハンガリー柔道家の来日は彼らが初めてでした。ソ連の客船ジェルチンスキー号で横浜港に到着した選手たちは、講道館をはじめ各地で指導を受けましたが、オリンピックや世界選手権の日本人優勝者を残らず知っていて、われ先と稽古をつけてもらったそうです。前橋市でも親善試合が行われ、赤城山の麓にハンガリーと日本の国旗が高々と掲げられ、関係者の家族は総出で迎えました。畳に座り日本酒とトカイワインを互いに交わし、拙い会話ながら賑やかな夜を過ごしたことは、今でも記憶に残っています。

 1974年は群馬の柔道チームがハンガリーを訪問。そして1976年にはスパルタクスが2度目の来日。国際試合の傍ら、様々な交流が続きました。日本に滞在した指導者や選手は欧州大会や世界選手権で大きな成果を上げ、バルセロナ五輪では金メダル1個、2階級で銀メダルを獲得するなどの実績を残し、ハンガリー柔道を印象づけました。わが家にも多くのハンガリー人が訪れましたが、柔道以外にもボクシングの五輪チャンピオン、パップ・ラスロー氏(ロンドン・ヘルシンキ・メルボルンの3大会制覇)が滞在したこともよい思い出です。県下の高校ボクシングクラブで指導を受けた生徒達の、震えるような興奮と感激は今でも忘れられません。

 1989年、父はエスポワール・レスリング世界選手権に日本選手団副団長としてハンガリーを再訪。この時、富士山の石をコズマの墓へ備えたことは、現地の新聞やテレビでも話題になりました。「ハンガリー柔道選手権大会会場、その隣で完成にわくエスポワール・レスリング世界選手権大会会場で私たちはヤマモト・タカオに会うことができた。50歳の高等学校教師、かつては柔道家として、今回はレスリング・ナショナルチームの指導者として。・・・・・・出発前に富士山へ登り石を集め、親友コズマの墓へ備えました。ヤマモト・タカオの姿を私たちハンガリー人は忘れません。決して」(人民スポーツより)。
 ハンガリーを含めて欧州各地で武道の紹介や国際試合に関わりましたが、夢半ばの2009年、間質性肺炎のため71歳で亡くなりました。多くの弔電がヤマモト・タカオのもとに届けられました。

 父の遺志を胸に、翌年ハンガリー各地を御礼を兼ねて訪問しました。行く先々で懐かしい友人達から家族のように温かく迎えられ、「タカオのために」と何度も盃を交わしました。ケチケメートではコヴァーチ・シャーンドル氏や、弟で詩人のイシュトヴァーン、そして来日した選手にも会うことができました。コヴァーチ氏はコズマの友人で、30年にわたり父と100通近い書簡を交わしたレスリングの名指導者で、“Haikuk Takao(タカオの思い出)”という一遍の詩を私たちに送って下さいました。
 エゲラーグで訪ねたサボー・フェレンツ氏の柔道場では、群馬県出身の福田赳夫元首相(当時大蔵大臣)の手紙が入口に飾られ、37年前の赤城山と同じくハンガリーと日本の国旗が掲げられていました。来日当時、ヨーロッパ・ジュニアで活躍していたサボー氏は、指導者であるとともにシニアの競技者として成功し、6人の子供達全員が柔道を学び、今では国を代表する選手に成長しています。道場の前には父の名が刻まれたメモリアルの木柱が建てられ、柔道着を着て整列した多くの生徒達が黙とうを捧げてくれました。「ジョケル(草の根)」と呼ばれた父が、天国でどんなに喜んだことでしょう。「強いものが勝つのがスポーツの公理で今や世界のJUDOだが、柔道発祥地の日本人柔道家として誇りをもち、古柔道と共にその精神を身につけなければ」と自戒を込めながら、自らも学び続け、指導教育に注いだ生涯でした。

 父の書斎には、今でも陶器やカロチャ刺繍が大切に飾られ、ハンガリーから持ち帰った本やレコード、楽譜などがそのままに並んでいます。ハンガリーの歴史や文学、とりわけ詩を愛した父は、多くの詩訳を残しました。クラシック音楽がいつも家で流れており、私にピアノとヴァイオリンを習わせてくれたことが、夫となる林太郎との出会いにもなりました。今年の春、ドナウ宮殿に多くの友人を招待して、生前の父が好きだったベートーベンのピアノ協奏曲を夫の演奏で聴くことができました。
 夫は今、ハンガリーに拠点を持ち、ピアニストの卵をリスト音楽院のマスタークラスで指導しているのは前号の通りですが、本場で学びたいという思いは50年前の柔道選手と同じものだと感じています。若い柔道部員が練習の合間にオペラの話をしていることに感心していた父ですが、日本と全く違う土地に身を置いて聴衆の評価を得ることは、夫自身も乗り越えてきたところです。コズマと父の友情に発した半世紀にわたる縁ですが、今後も新たな出会いを楽しみに、ハンガリーを訪ねていきたいと思います。

(あかまつ・じゅんこ)