この10月と11月、続けざまに三度も膝の水を抜くはめになった。20年振りのことだ。忘れもしない1990年初夏のある日、経団連の視察団との夕食会を前に、マルギット島のテルマル・ホテルの温泉に浸かり、マッサージを受けた。左足に疲れが溜まり、膝の曲がりが鈍くなっていた。疲れると、膝に少しだけ水が溜まる。水泳やマッサージなどで疲労をとれば、数日で元通りになる。もちろん、水が溜まっている部位は強く触れないで、軽く滑らせるだけのマッサージが必要だ。ところが、マッサージ師に注意するのを忘れた。マッサージ台に上がった途端、いきなり曲がりきらない左足を、思い切って臀部まで押しつけられた。膝が「グゥグゥー」という鈍い音をだした。「あー」と叫んだが、後の祭り。その場で痛みを感じたわけではないが、何かまずいことが起きたと直感した。
それから会場のグンデル・レストランに直行したが、視察団への30分ほどのレクチャーの間も、左膝の違和感が次第に強くなったのを覚えている。その夜は無事に家へ戻ったが、夜半から痛み出し、膝がみるみるうちに膨れ上がった。朝にはもう立って歩けなくなっていた。ハンガリーで持つべきものは医者の友人。4戸入居しているアパートのお隣さんは私と同い歳の泌尿器科の医師で、ハンガリー医学界で良く知られたロミッチ兄弟の弟イムレ(現、センメルワイス医科大学付属泌尿器科病院院長、兄のラースローは内科病院院長)で、奥さんも未熟児の専門医グゥルベ・エーヴァ(現、ハンガリー未熟児学会会長)。床を這いながらドアを叩き、助けを求めた。奥さんの同級生に膝の専門医がいるというので、センメルワイス医科大学整形外科病院へ連れて行ってもらった。
膝の水を抜く
外科医なら誰でも膝の水を抜く程度のことはできるだろうと考える。ところがそう簡単ではない。この年、さらに2度も水が溜まり、ハンガリーと日本の病院で水を抜いてもらったが、専門医と専門外の医者との違いを知ることになった。
最初の水抜きから2ヶ月ほど経って再び膝が腫れた。最初に世話になった医師は海外出張中で、仕方なくタクシーでヤーノシュ病院の救急病棟へ行った。2時間も待たされたあげく、一般外科医と思しき医者が膨れ上がった膝を見て、まず麻酔注射をし、それから浣腸のような太い大きな注射器を用意した。ところが、針を入れても、なかなか水を抜けない。針を動かして水が抜ける場所を探すが、結局、中途半端にしか抜けず、大げさにも石膏のギプスで左足全体を包んでしまった。待ち時間が長かったこともあって、治療を受けている最中から私はイライラし通しで、家へ戻ってからハサミでギプスを断ち切った。
ハンガリーの外科医の名誉のために言っておけば、日本の武蔵野日赤病院でも大同小異の扱いを受けた。要するに、専門医でないと分からないことや、できないことが多いのだ。だから、医者を選ばないといけない。
最初に水を抜いてくれたハンガリーの専門医は、麻酔など使わず、小さな注射器で綺麗に水を抜いてくれた。水を抜くわけだから、ふつうの注射針より太い針を使う。針を残しながら、数回にわたって10〜20cc程度の水を抜いていく。膝に針が入る一瞬は痛いが、七転八倒する膝の痛みに比べれば何ともない。
餅は餅屋
医者と聞くとなんでも治せると思うが、現代医療は「赤髭先生」時代と違う。外科医に内科の手術はできないし、同じ外科と言っても、脳外科などは特殊な分野だ。整形外科医でも、専門とそうでない分野があるだろう。同じ専門でも腕利きの医者もいれば、そうでない医者もいる。風邪薬をもらう程度の病なら万(よろず)医者でも構わないが、専門知識や経験が必要な治療や手術には熟達した医者を探さなければならない。
私が野村総研の事務所を構えていた頃、日本から訪問する客が、「今、トヨタの株を買うべきですかね」などと意見を聞いて来た。「証券セールスを担当しているわけではないので、分かりません」と答えていた。証券会社に所属している人なら、誰でも株の買い方を知っているだろうと思うのだろうか。証券会社の調査機関は大きく分けて、二つの専門家から構成されている。一つは産業セクターの動向や企業の株価の動向を調査しているアナリスト。これはミクロ経済の分析担当。もう一つは国や地域の経済を分析するエコノミスト。これはマクロ経済の分析担当。株価動向の分析などはアナリスト、為替や経済成長などの分析はエコノミストの仕事である。同じアナリストでも専門の産業分野がいくつか特定の分野を受け持っている。エコノミストも同じである。すべての産業セクターを担当している人や世界経済全体を担当している人はいない。
要するに、現代社会では仕事が細分化されて、もう「赤髭先生」の時代のように万の仕事をこなす人などいない。だから、何事においても、その筋の専門家を探すことが肝要なのだ。とくに医者は人の命にかかわることだから、間違った医師を選ぶと、治るものも治らない。
膝にも出る痛風炎症
膝に痛風の炎症がでると、バットで殴られたような痛みが出る。2〜3日はとにかく痛みとの闘いになる。まだ30歳代の半ばの頃、膝に痛風の炎症がでて、医者に自己診断を告げたら、「そんなはずはない」と言われた。「痛風の炎症は足の親指に出るのがふつうだから」。これは教科書でしか学んだことのない医者の一つ覚えで、最近は痛風研究が行き渡った所為か、勉強したことのある医者は理解を示すようになった。今では整形外科医も、痛風の炎症が併発している膝の腫れを認識するようになっている。
痛風の炎症(尿酸結晶が関節に溜まって神経を圧迫して起こる炎症)が起きる前に、かならず前兆の異変を感じる。その時に、「コルヒチン」という強い薬を飲めば、不思議と痛みの発症を避けることができる。しかし、いったん炎症が出ると、コルヒチンは効かなくなるばかり、腎臓に負担をかけるので避けた方が良いと言われている。しかし、ちょっと前まではそうではなかった。これも一昔前のことだが、アメリカの大学の研修セミナーに学生を引率した折、水上スキーに興じて足首を痛め、そこに痛風の炎症が出た。大学病院の医者が処方したのは、コルヒチンを3時間おきに大量服用するというものだった。実際のところ、炎症が出てからは痛み止めの薬を飲むしかない。鎮痛剤でもアスピリン系は避けた方が良いとも言われているが、強い痛み止めは副作用やアレルギーを起こすので難しい。とにかく、山を越えるまで、痛みに耐えるしかない。
20年前も今回も、膝に水が溜まり、そこに痛風を併発させた直接の原因はマッサージだった。マッサージのやり方で、治療になったり、障碍を起こしたりする。しかし、それはあくまで直接的な原因で、膝の疲れや痛風症(高尿酸血症)のケアを怠ったのが原因だ。私の場合は食生活からではなく、遺伝的な要素によって惹き起こされるものだから、血中の尿酸値を低めるアルプリノールを服用する必要がある。薬を飲むのが嫌で、サボっていた付けが回ってきたのだ。
ハンガリーで医者にかかる
ハンガリーの病院は外来患者の受付システムが機能していないから、病院へ行くのは気が重い。こういう時は救急車を呼ぶという最後の手段がある。自分の足で救急病棟へ行ってはならない。救急車で運ばれた患者は優先して診察を受けられるが、自分で救急病棟へ行っても受付がないから、看護婦か医者にお金を掴ませない限り、いつ診察を受けられるか分からない。何時間でも放っておかれるから、コネがない限り、自分で行ってはならない。
今回はとにかく痛みの峠が過ぎるのを待った。症状が少し治まってから、インターネットで20年前の医師センドゥルーイ・ミクローシュ教授を探した。現在、センメルワイス医科大学整形外科病院院長になっていることが分かった。しかし、すぐに大学病院へ行っても診察を受けられるとは限らない。インターネットの情報から、センドゥルーイ教授が12区のヘルスセンター・クリニックでも診察していることが分かった。週に一度、夕方からこのクリニックで診療している。電話で予約がとれた。
日本の健康保険制度に馴染んでいる我々が、ハンガリーの医療・保険制度や医療慣行を理解するのは難しい。国立病院では旧体制の残滓ともいえる古いシステムが機能していて、被保険者であれば無料で診察してくれるが、コネなしで病院へ行っても診察を受けるのは並大抵のことではない。なにせ、外来受付システムが機能していないので、どうやって自分の順番が回ってくるか見当もつかないからだ。ハンガリー人ですら、数時間待っても診察を受けられず家に戻る人もいるから、外人には至難の技だ。
旧体制の医療・保険システムが形だけ残され、多くの医者は病院の常勤医師ではなく、病院に請求書を発行して報酬を受ける事業者資格を持つようになっている。多くの医師が個人クリニック(合法・非合法)を保持しながら、非常勤勤務のような形で病院に勤めている。これで良い診療サーヴィスが提供できるはずがない。たとえば、病院に勤務する産婦人科医は初診の患者にたいして、出産までのコントロールは自分のクリニックで行い、出産はまた病院でという具合に使い分けている。自分のクリニックでの診療は現金で決済されて医師の収入になる。病院勤務の報酬が低いので、このような変則的な慣行がまかり通っている。
個人クリニックをもたない医師は、ほとんどの国立病院の中に併設されたプライヴェット・クリニックでアルバイト診療を行う。たとえば、センメルワイス大学付属のすべての病院に、センメルワイス・ヘルスセンター(Kft.形態で大学所有)が開設されていて、そこでは保険外診療が行われている。通常の健康保険診療だと、手術に何ヶ月(手術によっては何年)も待機させられるが、ここへ行けばすぐにやってくれる。しかし、健康保険は一切利かない。
診療を受ける
センドゥルーイ教授はセンメルワイス・ヘルスセンターのクリニックだけでなく、12区のキライ・ハーゴ通りにある国立脊髄治療センター内に設置された「ブダ・ヘルス・センター」というプライヴェット・クリニックにも週一で診療を行っている。
国立脊髄治療センターの入り口を進んだ奥に、立派なドアで仕切られた部分がある。Budai Egeszsegkozpont と名付けられたドアを空けると、2名のアシスタントが受付・診断書作成・経理を担当し、その周辺の6室が診察室になっている。ここはあくまで簡単な診療をするだけで、手術は後日、国立病院の施設を借りて行うことになる。何とも歪んだシステムである。インターネットで見ると、この種の保険外クリニックは雨後の竹の子のように生まれていて、それぞれが価格表と称した診療費請求額を公示している。ハンガリーの公的医療保険にはいっている人は「割引」しますと書いているところが多い。ちなみに、膝の水を抜く診療費は初診料を含めて、割引金額で26000Ftだった。領収書をくれるから、民間の医療保険に入っている人なら還付請求できるが、一般のハンガリー市民には縁遠いシステムである。
膝の痛みが消えるのであれば、お金の問題ではないが、毎月、高い健康保険料を払っていても、緊急治療に健康保険が役に立たないのは空しい。久し振りに会うセンドゥルーイ教授はさすがに風貌が変わっていたが、昔の面影は残っていた。もちろん、20年前のことなど覚えているはずもない。簡単な洗い場に一通りの注射器だけは整っていた。何回か膝から水(粘液)を抜き、最後は注射器を抜いて、膝周辺を絞って注射針から最後の一滴を絞り出す。とはいっても、完全に水を抜くことはできないが、50〜70CC程度の水が抜ける。その後に、少量のステロイド剤を注入して、治療は終わる。インターネットで教授を探したことや、20年前の話などした。教授は電話で受付のアシスタントに診断書の内容を口述し、受付でお金を払い、診断書をもらって一件落着となる。
このプライヴェット・クリニックでも、設備面からみれば、日本の標準的な診療サーヴィス以下だが、いったいこれからハンガリーの医療・保険体制はどうやって改革ができるのだろうか。現在のアナーキーな医療体制の改革は並大抵の努力で済まないことだけは確かだ。
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