10月1日から8日、ハンガリー・デブレツェンで第19回熱気球世界選手権が開催されました。日本からは7機の熱気球、7名のパイロットとそれぞれのクルー約40名が参加しました。
前回『ドナウの四季・秋季号』で紹介したように、熱気球はスカイスポーツの一種です。世界選手権では、風まかせの熱気球を、いかに正確に飛ばすかを競います。同時に海外競技に参加するためには、機材の国際輸送はじめ、競技車両の手配など様々な事務作業をこなし、かつ「コスト削減」しなければなりません。日本国内で行われる競技と、海外での競技との大きな差は、こうした手配に関する点でしょう。
今回、心配していた手配に関する事柄は、万事うまくいきました。レンタカーも空輸も滞在も、メールとスカイプ(インターネット電話、チャット)による綿密な打ち合わせが功をなしました。これは、異常に細かく神経質な私たち日本人のリクエストにも、辛抱強く、誠実に対応してくださったハンガリーの皆さんのおかげだと思っています。
〜日本出場枠7という意味〜
熱気球世界選手権の出場枠は、もともと各国に割り当てられている出場枠と、前回2008年の世界選手権の実績により決まります。
日本では40年前に初めて熱気球が空を飛びました。外国の物語の中に登場する熱気球に憧れた少年・梅棹エリオの情熱により初めて製作されたのです。国土の狭い日本は、熱気球に不向きな土地です。しかし、経済成長とともにロマンある乗り物として熱気球の愛好者も増えてきました。熱気球の登録番号は通し番号となっており、2010年10月末で1400機の熱気球が日本気球連盟に登録されています(現存しない機体も含む)。
90年代をピークに、日本の熱気球の愛好者人口はやや減少しています。これは日本の経済的な背景、様々なムーブメントが影響していると思われます。しかし、愛好者人口の減少とは異なり、日本の熱気球の競技レベルはここ10年で飛躍的に向上しました。06年には世界選手権が栃木県で開催され、6機出場し最高5位に日本は食い入りました。08年は7機、最高7位。こうした結果から、2010年は7機の出場枠が決まりました。
また、特筆すべきは2世パイロット誕生ということでしょう。欧米では、生まれた時から熱気球に乗って育った若いパイロットも多数いますが、日本にはいませんでした。そんな中、幼い頃から熱気球競技の世界で育った藤田雄大選手(23歳)が台頭してきました。雄大選手の父は、スカイスポーツのオリンピックといわれる「ワールド・エア・ゲーム」で優勝した経歴も持つ、世界トップクラスのプロ・バルーニスト藤田昌彦選手です。雄大選手のチームは、父・昌彦氏と、母・さと子さん、友人の4人の構成となっています。
他の6チームの日本人パイロットは、54歳、49歳、48歳、44歳、41歳、36歳。いずれも海外での競技経験豊富な日本代表パイロットです。
しかし、今回ハンガリーでは、日本は惨敗となりました。
〜強い!アメリカ勢・・・日本は惨敗〜
世界選手権が始まる前、アメリカ合衆国世界選手権チームのインターネットサイトBalloonPongでは、このように各国を評価していました。
The usual power nations of Germany,France, Great Britain, andthe United States have a longhistory of good performancesat the World Championships.Many teams are keeping an eyeat some of the new nations onthe international scene. Japan issending seven pilots to this year,while Brazil, Sweden, and Spainare each sending five.
今回の世界選手権では、従来から行われているゴールに向かって正確に飛ぶ競技と、近年始まった3Dタスクと呼ばれる競技が行われました。3Dタスクとは、各気球に搭載される航跡記録装置(GPSロガー)の結果から飛距離などを算出するものです。例えば、空中に三次元のエリアが設定され、その中をいかに長い距離飛行するか・・・といった内容となり、より複雑で高度なフライトテクニックと、3Dタスクをこなすための情報分析力が必要となります。
日本国内では3Dタスクの競技が少ないため、日本人パイロットは3Dタスクに慣れていません。また、各国の気球や競技車両を見ると、GPSや高度計、無線機は当然のこと、パソコン、動画カメラ、位置を知らせる発信機など、「熱気球」というノスタルジーさえ感じる外見とは異なり、ハイテクな機器が目白押しです。日本は、どちらかというと「高度計とGPSと無線機だけ」で競技をしている旧来型です。ゴールに向かって飛ぶ競技では、この方法でもパイロット個人の「技」と「センス」の勝負で上位に食い込めます。今回のハンガリー世界選手権でも、ゴールに向かうタスクでは日本勢も悪くはないポイントを稼ぐことができました。しかし、問題は3Dタスク。国としてチームを編成し、情報網を駆使する各国には到底及ばぬ結果となりました。
1位、2位はアメリカ合衆国、3位スイス、4位フランス、5位ドイツと強豪国がやはり上位を占めました。
日本勢は、16位、31位、42位、56位、69位、86位、105位。各パイロット、各チーム、がんばりました。しかし、パイロット個人のスキルで挑む、今の日本の体制の限界かもしれません。
日本チームの大きな特徴は、各パイロットを中心とするチームごとに競技を行っており、競技上では日本チーム全体の結束は弱いことです。世界選手権はあくまで各パイロットのテクニックを競うものであり、国同士の戦いではないとされます。しかし現実には、アメリカ、ドイツなど強豪各国は、国としてチームを編成し、システマチックに世界選手権に挑んできます。
今回、圧倒的な強さを見せたアメリカ合衆国は、6人のパイロットを送り込んできました。若いパイロットが多く、そのパイロットをベテランがサポートする形でアメリカチーム全体が編成されています。アメリカチーム全体のチームマネージャー、その傘下に気象チーム、クルー、インターネットサイトBalloonPongを使っての告知広報担当スタッフ、そしてスポンサー。「The U.S. Team」は完全に組織として機能していました。アメリカチームの場合、トップパイロットをより上位に上げるために、しばしば他のパイロットが「風見」として先に飛びます。各パイロットは、自分が優勝したいという思いもさることながら、何より星条旗を揚げたいという気持ちを強く抱いているようです。
こうした性格は国によって異なりますが、日本チームは、出場パイロットの数は世界有数となってきたものの、優勝できないのには、このあたりに要因があるように感じます。特に近年3Dタスクのような新しい競技が増えたことは、組織力がモノを言います。他にも、熱気球は英語が公用語として進む競技のため、英語のスキルも必要です。日本人らしい性格からくるコンプレックス、スポンサーが少ないこと、選手の職場環境、富裕層ではない一般人が選手である所以の経済的事情なども、他国と比較しデメリットな点としてあげられるでしょうか。
次回、世界選手権は2012年。アメリカ合衆国で開催されます。日本は、今回の結果から、シード枠は3となっています。2000年代初頭は、熱気球競技の世界トップクラスに入りつつあった日本も、今回の惨敗により急落してしまいました。
〜世界選手権から帰国して〜
世界選手権から帰国した私たちを待っていたのは、それぞれの日常生活と秋の気球大会。11月に佐賀で開催された日本選手権、栃木で開催された「とちぎインターナショナル・チャンピオンシップ」。多くの選手・クルーは収入を得るための仕事と競技活動との間で、嵐の秋を疾走することになります。
私の所属するチームでは、一大事がありました。メインパイロットが、なんと失職してしまったのです。
ソフトバンクの孫正義氏は、Twitterで「夢さえあれば生きてゆける」と呟いています。ノーベル化学賞受賞の根岸英一教授は「夢は大きければ大きいほどいい。自分が好きなもので向いていることが何なのかを客観的にみきわめることが大切だ」と語っています。
幸いなことに私たちは、大空という夢をしっかり抱いています。
しかし、その夢の前には大きな壁がそびえています。ハンガリーへ行った私達チーム5名の帰国後は、失業保険、就職浪人、フリーター、自営業、会社員。これからの熱気球競技の活動そのものが、危ぶまれる事態となっています。「分相応の活動」という言葉と、夢との間で心は揺れます。しかし、あえて言いたい。「夢さえあれば生きてゆける」と。夢さえ忘れなければ、きっと何とかなると。
〜ブダペスト国際マラソン・駅伝部門参加〜
さて、前回もお話しましたが、なぜ盛田さんと出会うことになったのか。昨年末からのハンガリーに関するリサーチの過程で、ぽつりぽつりと印象深く盛田さんのお名前が浮き上がり、私の記憶に残っていました。ある日、ハンガリー政府観光局のニューズレターで、私たちがブダペストに到着する翌日、ブダペスト国際マラソンが開催されることを知りました。これは楽しそうだ!チームみんなで参加しようという話に。私たちのチームは5人なので、せっかくだから駅伝部門に参加しようと(ちなみに陸上経験者はいません)。過去のデータを見ていたら、駅伝部門の上位チームにMorita Tsuneoというお名前が。
( ! )この方は、あの、ハンガリーの情報でしばしば目にする、あの方にちがいない。今一度、ネットを探索し、盛田さんの個人のサイトを見つけ、エッセイなどを読み返し間違いないと確信を持ち、うれしくなって思わずメールを送りました。そこから、盛田さんとの出会いはスタートしました。
面識もない私たちのために、マラソンのチェックインをしてくださり、当日は不慣れな私たちを終始アテンドしてくださいました。本当にありがとうございました。 |