この夏、3名の友人・先輩が相次いで他界した。7月にはパズマーニィ大学情報学部の創設者で、国際的に人工網膜チップの開発で知られたロシュカ・タマーシュ教授が、膵臓癌で亡くなられた。8月初めには、本誌にもたびたび寄稿していただいたソ連・東欧研究の専門家、佐藤経明先生が、胃の全摘手術の後、およそ2年を経て亡くなられた。さらに、佐藤先生の追悼文を認めている途中に、法政大学時代の同僚である船橋晴俊君(法政大学教授)が、8月15日にくも膜下出血で急逝した。皆それぞれ、学問のみならず、社会的活動を通してそれぞれの社会に貢献した、かけがえのない命である。多くの人に惜しまれながら、この世を去った。私がかかわった出来事を通して、友人たちを追悼したい。

 ロシュカ教授はハンガリー科学アカデミー中央電算機研究所の所長として、カリフォルニア大学、バルセロナ大学との共同事業による人工網膜チップ開発を行っていた。カリフォルニア大学客員教授として定期的にアメリカを訪問し、国際的に知られる学者であった。さらなる開発を必要とするのでこのチップの事業化に手がつけられなかった。長期の開発期間を経て、結局、この画像処理アナログセンサーは東芝に特許が売られ、東芝がさらに開発を進めた完成商品が昨年、市場に出ることになった。
 ロシュカ教授が中心となって開設されたパズマーニィ大学情報学部では、いち早くBIONICS研究が導入された。生物学、医学・生理学、工学、物理学の学際的共同作業を必要とする新たな教育・研究分野で、アメリカでもMITを初めとする数大学で開始されたばかりの分野である。ヨーロッパでは他大学に先んじて、パズマーニィ大学がその先陣を切ることになった。ここでは科学アカデミー研究所やセンメルワイス大学の教授陣が教育を担っている。ロシュカ教授の名声と誠実さが、すぐれた研究者を教育者として招聘する力になっていた。国外からの著名な研究者もしばしばパズマーニィを訪れ講演している。がん温熱治療器の開発者であるサース・アンドラーシュも、客員教授として年2回の集中講義を担当している。
 ロシュカ夫人はリスト音楽院の英才教育課程のピアノ教授で、アメリカ訪問の度に、各地でコンサートを開いていた。息子の一人がスイスの医療研究所の研究員で、膵臓癌発見からスイスとハンガリーの両国で、医師の共同作業を担った。ただ、主たる治療は各種抗がん剤の投与で、例に漏れず、治療によってロシュカ教授の体は急速に衰弱していった。
 抗がん剤治療を終えて、体力は一時的に回復したが長続きしなかった。抗がん剤治療を始めて、およそ7ヶ月で他界された。ロシュカ教授はサース教授の集中講義に参加され、熱心に講義を聴いていられたが、温熱治療を受けることはなかった。ご子息が治療態勢に全責任をもち、抗がん剤治療を選択したからである。温熱治療や緩和治療をおこなっていれば、これほど早く亡くなることはなく、生活の質を維持したまま、残された仕事の整理を行う時間が取れただろうと思う。しかし、医療にたいする考え方はそれぞれが責任をもつ以外にない。ご子息は最初から7ヶ月ほどの命だと考えられたようだが、それならもっと仕事ができるような治療を選択すべきではなかったかと思う。
 もう一人の子息は牧師として、聖イシュトヴァーン教会でのミサを取り仕切った。500名を超える知人や教え子たちが、ロシュカ教授の早すぎる他界を惜しみ祈りを捧げた。享年74歳であった。

 佐藤経明先生の追悼は別途記したようが、先生は現代医療にたいして万全の信頼をもっておられた。それは結核治療から再起した若き日の体験からきている。確かに現代医学は多くの難病を克服してきた。それによって、人々の寿命もまた飛躍的に伸びた。他方で、がん治療にたいする現代医学は、いまだ混沌の時代にあり、外科手術や抗がん剤治療が幅を利かせている。しかし、外科手術や抗がん剤治療の副作用は、無視できないほど大きい。多くの医師は「がんという物体」を除去したり攻撃したりすることを主要な目標とし、それぞれの患者がかかえる個人の生き方や「生活の質」を二の次にしているとしか思えない。手術や抗がん剤治療の副作用で患者が死亡しても、それは「がんのために死亡」とされる。現代医療は目標と手段を取り違え、けっして自らの過ちを認めようとしない。その意味で、現代のがん治療はいまだ、非常に初歩的な段階にある。患者はそれを良く知って、医師に自らの命を百パーセント預けることなく、治療や残された人生についての明確な意思を持つことが必要だ。

 船橋晴俊君は私より1歳年下で、東大文学部大学院の出身の社会学者である。彼が法政大学に奉職した1979年には、私はハンガリー留学中で、1980年に大学へ戻って初めて顔を合わせた。私は1981年から2年にわたって、学部長補佐(学生自治会担当責任者)を務め社会学部のキャンパス移転の決定を担った。船橋君が学生委員として私を支えてくれた。私が法政へ赴任した1975年の法政大学飯田橋キャンパスは、大学紛争時代の遺物を抱え、荒廃状態にあった。大学紛争を経験したわれわれ団塊世代が、荒れ果てたキャンパスを建て直す仕事を請け負った。懸案だった町田キャンパスへの移転決定を行い、1984年に経済学部と社会学部の第一次移転が実現した。法政大学百年の歴史の中で、新たな発展の時代を迎える画期を記した。
 分野が異なるので専門的な事柄で議論することはなかったが、すべてのことに誠実に対応し、手を抜かない船橋君は、誰からも好かれた。「民意と政策の矛盾」という視点は彼の生涯を通したテーマで、新幹線公害の研究から始まり、今日の原発問題に至るまで、社会調査に専念していた。寝食を忘れて仕事に没頭したことが、突然の死を招いたと思う。なんとも残念なことである。船橋君がこの春の参議院で行った陳述を本誌に掲載して、彼の遺志を伝えたい。

(もりた・つねお 「ドナウの四季」編集長)