幼い頃から毎日挫けず努力を重ねて、「将来ピアニストになるんだ!」「お医者さんになりたい!」「サッカー選手になるぞ!」と宣言できる人達が持っていそうな未来像、そして夢の実現に必要な行動力が、今の私 には不足している。将来に備えて継続的に勉励できる人に対して嫉妬を覚えることがある。「自分は生まれてから17年間何をしてたんだろう・・・」と呟やいたりする。何か一つずば抜けて優れた才能に恵まれたい!と願うことも多いが、当面は他人が向上していくのを見守る中、充実感が無い毎日が過ぎていく。
 私は一昨年9月に第一志望だったハンガリーの高校へ入学し、昨年4月から、みどりの丘日本語補習校を後にした私達卒業生の意志を汲んで新たに設立された高等部で、月に2回行われる国語の授業に通っている。
 高等部に進学してから2年目となる今、私はどれだけ成長できたのか気にな る。何処がどう伸びたか。自分自身ハッキリとした答えが出せないが、想像していたよりもずっと厳しかった2年間を経て、私の世界観が変わったことには間違いない。毎回補習校の建物に足を踏み入れる時、廊下を楽しそうに走り回っている他の学年の生徒達を、何故か(補習校の一生徒であった頃とは違って)外部から客観的に観察してる自分に気が付く。自分も同じ生徒であって良いのか、少しは大人っぽく振る舞うべきか。子供と大人の挟間に居る存在としての義務は何か、等々考えている最中、低学年の子達が馴れ馴れしく、私に他愛無い話を持ちかけてくる様子を見て、先ずは一安心した。別に私のことを違う 眼で見る訳でもないようなので、とにかく嬉しかった。
 一方、街中をボーっと歩いている際に知り合いなどに会うと、「久しぶり!」の次に来る言葉 が、最近はなぜか「大学は何処にする?」になってしまっている。1年後は遠い未来の話だと思っていたが、どうも真剣に考え始めた方が良いようだ。

 うまく思考がまとまらないのだが、高校で所属している合唱団はプロと言われるほどの団体で、平日の夜や週末にもしょっちゅうコンサートが入る。地方公演に出掛けることもよくある。そのため自分の強い意志で通い始めた補習校高等部に、思うように通えないジレンマに悩まされる。まさかこんなに合唱の練習やコンサート、地方公演が入るとは、高校入学前は知る由もなかった。蓋を開けてみて驚いたのである。この現実に上手く対応できないまま、私はここまで来た。本当は自分の意志に従って、ゆっくりとした歩調ではあるが確実に一歩一歩進んで来たかったのだが、一度踏み入れてしまったこの環境は、自分の意志でどうにかなるものとも違うのである。糸の切れた凧のように、私もコントロール不能の状態になっているのかもしれない。けれど慣れなのか諦めなのか何なのか、現状をとことん嘆いている訳でもない。それは合唱旅行で得るものも大きく、出席が時々になってしまっているけれど、日本語の国語の授業から学ぶことは計り知れなく、高校生一人分以上は頑張っているかもしれないと思う気持ちが、心のどこかにあるからかもしれない。

 母によく言われるのは、「長期的な目標を達成する過程において、中短期的な目標を掲げて、それらを一つずつ達成させていくようにすれば、 かなりしっかりした人生設計ができるので、いつも何らかの目標を掲げてたゆまなく努力し続ける姿勢が大事である」、ということだ。 これを私に当てはめると、例えば長期的目標がいずれ日系のとある企業に就職することだとしたら、それに向けて進 む過程での中期目標が、第一志望の大学に進学することに当てはまると思う。そして、短期的な目標の一つは、漢字検定に合格することである。そんな訳で随分迷った挙句、2014年2月2日(日)に、漢字検定2級を受検することにした。既に申し込んでしまっているので、もう後には退けない。密かにいずれは1級にも合格したいと考えている私は、一歩一歩漢検の級を上げて行かなくてはならないと考えている。「天才」と呼ばれている人でも、「1パーセントの才能と、99パーセントの努力」と言われているくらいだから、ずば抜けた才能がない私が成功を目指すなら、とにかく歩を緩めず進んでいくしかないのである。

(らぱい・えりか)