1979年6月ブダペスト空港に降り立った。1983年7月まで4年に及ぶ駐在員生活が始まった。担当は総務・経理兼ソフト部門全般の営業(化学品、物資、非鉄、農水産、繊維)。所長と私の2人に現地雇員6名の小さな事務所であった。社会主義体制の真っ只中にあって仕事の行動半径には制限があったが、駐在期間中ハンガリーの田舎を約30万キロ走破した。赴任後2年目から加わった家族と多くの友人知人に囲まれ、それなりに充実した4年間の駐在生活であった。ハンガリーを語る上で忘れることのできないいくつかの思い出話を記しておきたい。

商社マンとなる
 1970年4月入社。5年の貿易経理担当を経て予てより希望の営業マンとなった。配属先は「農薬部」。売買の仲介を通じて単に手数料をとる日銭稼ぎと違い、新商品の開発から登録・普及・拡販に至るまで最低5年以上を有する息の長い仕事である。例えば私の駐在時に紹介したいくつかの商品は20年後に大きな商いとなって実を結んだ。持ち込んだ新商品が商売となって利益を生む間に駐在期間が過ぎてしまうという商品の性格上、農薬を取り扱う商社は少ない。「農薬」というだけで毛嫌いされる昨今の風潮は業界への新規参入を妨げてもいる。

ハンガリー農業視察団の訪日
 1978年秋、ナジ・バーリント(農業省植物防疫局長)、コンコイ・イシュトヴァーン(全農副総裁)、シーグラー・ジュラ(化学品輸出入公団部長)、コトン氏(バダチョニ国営農場主)の4人からなる農業視察団が訪日した。その受け入れを担当したことが、その約1年後に辞令を受けたハンガリー駐在のきっかけとなった。社会主義体制の下でチェコと同様な工業化を進めていたハンガリーは、1970年代に入って農業立国を目指す政策に重点をおき、70年後半には旧コメコン諸国の中で唯一食糧の自給自足が可能な国となった。社会主義国からの視察団の日本受け入れには種々難しい問題があったが、食糧増産に不可欠な肥料・農薬・農機具等の農業関連資機材を広く扱う私の会社が日本招聘の窓口となった。
 日本では農水省はじめ関係官公庁に表敬挨拶の後、日本の有力な農薬製造会社やその研究所、試験圃場のほか、近郊の篤農家を訪問し、日本農業の実体を垣間見てもらった。空港の出迎えから見送りまで、朝起きて寝るまでのフルアテンドの1週間を通じて、一行4人との友情が芽生えた。ホテルの一室で4人が集まりハンガリーの地酒であるパーリンカで朝っぱらから小宴会が始まっていたところに呼び込まれ、その後のスケジュールに支障をきたしたこともあった。夜は日本食に舌鼓を打ち、神田芸者と共に他愛の無いゲームに興じた。熱海の温泉で撮った全員オールヌードの写真は今も良き思い出の品である。その後、この4人には色々なお世話になるのだが、一行4人のうち既に3人がこの世にいない。
 とりわけ「ゴッドファーザー」と私淑したコンコイさんは、3年前に日・ハン旧農薬関係者が一堂に会する「同窓会」への出席を前に急性白血病で急逝、葬儀の間じゅう溢れる涙を押さえ切ることができなかった。好々爺然としたコトン氏の経営する国営農場で作られたバダチョニケークニェル(辛口白ワイン)とスルケバラート(中甘白)は30数年前から日本に輸出されている。氏から頂いた木製の手作り匙とフォークは私の大事な宝物である。シーグラーさんとは1987年から駐在したジャカルタで偶然にも同じ駐在員として旧交を深めたが、深酒が祟って急性肝炎を患い現地で帰らぬ人となった。ただひとりナジさんが健在だが、30数歳の若さで局長を勤めた共産党員のこの優秀な官吏は、現在難病に取り付かれ家を出ることもままならないのに、「同窓会」に杖をついて顔を見せてくれ、参加者一同涙と抱擁の中で再会を喜び合った。

米の機械移植プロジェクト
 1970年代当初、ハンガリーにおける米の年間需要は約10万トン。需要の多くがソーセージ等、不足がちな肉の増量剤として使用されていた。国産米が凡そ7〜8万トン、残りの2〜3万トンを輸入する必要があった。当時の米の総作付面積は約3万ha。異常気象が災いしてha当り3トンあった平均収穫量が2トンを切りはじめ、貴重な外貨節約の為には米の増産が急務とされていた。米作りといえば2000年以上の歴史をもつ日本の米作り、それも機械による米の移植栽培技術に白羽の矢がたった。因みにハンガリーは米作りが可能な気象条件の北限である。日本の東北地方、北海道の米作りを手本として技術と機械を導入することになった。日本は農水省の下部団体であるAICAF、ハンガリーでの受け皿はKITE(国営農場と協同組合が主要作物毎に合体したハンガリー最大の生産者団体)が中心となって「日本式機械移植栽培による米作り」が始まった。AICAFからは米作りの専門家である富田富夫博士が孤軍奮闘し、3年に亘る技術移転を通じて特に米作りに寄せる日本人の魂を吹き込む努力を重ねた。KITEではマジャール・ガボール総裁をヘッドとしてアダニィー部長や多くの技術者がこのプロジェクトの促進に協力してくれた。普段から農薬関係で出入りをしていた私が各種情報の伝達役と関連資機材の輸入を担当した。3月半ばのまだ冬が抜けきらない時期にグリーンハウスの中で手作りの育苗箱を使って種を蒔き、約1ヵ月半後には約15センチに育った苗を圃場に移して機械移植する。ずんぐりむっくりの健康な苗を作るためにはハウス内の適切な温度調整と水管理が不可欠である。徒長(伸びすぎのひょろひょろ苗)を防ぐため、富田先生が命名した「スカート方式」は当時の育苗地で有名な言葉となった。暖房で蒸れたハウス内の温度を下げるためにハウスのビニールをめくり上げ朝の冷気を呼び込むのである。畑を改造した田んぼ作りには多くの苦労をした。最低でも1haある大きな畑を、水管理や除草管理、更には機械で移植する苗の補給を容易にするために畦道を作って小さな区画にする必要があった。3月後半からの苗作りから始まって、5月中〜下旬に田植えが終わるまで、富田先生はKITEの近くにあるゲストハウスに通訳と共に泊まりこんだ。私はブダペストから毎週末になると片道丁度200キロを走ってこのゲストハウスを訪れ、カレーライスを作り、日本酒を飲みながらの反省会が続いた。育苗場や圃場を毎週600キロ近く走り回った。5月初旬、日本から持ち込んだ鯉のぼりが翻る中、改造を重ねたクボタの移植機でコトコトと苗を植え付けていく様に感涙した。富田先生は絵画や音楽などの多彩な趣味があった。オペラ鑑賞の後、ある場面の一瞬を水彩画で描いた一品はマジャール氏に贈って大変喜ばれていた。そのマジャール氏は後に農業省副大臣となってハンガリーの農業発展に尽くしたが、惜しくも60歳を前にしてこの世を去った。冨田先生はその後日本での米作りに教鞭をとられたと聞くが、学生達とのコンパの帰りに自転車から転んでそのまま帰らぬ人となったと聞いている。5月中旬、無事田植えを終え、泥を奇麗に洗い落とした後の機械にウィーンから持ち込んだ日本酒でお清めをして、参列者一同の努力とご苦労に感謝した。突如、富田先生から「飯尾さん、歌ってください」・・・「では、荒城の月を」・・稚拙な歌声と共に富田先生の奏でるトランペットの調べが夕焼けに拡がって流れた。当時日本語の通訳を務めてもらったミクロシュ君は、その後在日ハンガリー大使館の領事を経て現在は貿易のコンサルタント、奥方は会計会社の役員となって進出日本企業の会計監査等で活躍されている。
 初年度の収穫はha当り5.5トンの大成功を収め、翌年の田植え時にはバスを連ねた小学生が社会見学にきてくれたが、その後このプロジェクトは当初の目的だった1万haには遠く及ばず、主に外貨予算の問題から4年目以降は品種改良用の米作りに役立てていたと聞く。初年度に獲った日本品種のキタコガネ米の稲穂は、額に飾って我が家の家宝となっている。

商談
 私の担当する扱い品目は多岐にわたっており、毎年200回を超す商談を経験した。商社の中でも当時これだけの数の商談をこなす営業マンは少なかったと思う。特に国の外貨予算枠が決定されてからクリスマス休暇に入るまでの期間は多忙を極めた。早朝に出社してテレックスをもぎ取り、そのまま貿易公団に向かう。途中の赤信号で文面を読んで車内で交渉の作戦を練るということを数多く経験した。一件100万ドルを超すような商談は日本からの取引先を巻き込んで難交渉になることが多かったが、ホテル部屋での打合せや公団の待合室には盗聴マイクが仕掛けられている懸念があったから、ホテル部屋に麻雀牌を持ち込み、ジャラジャラと大きな音を立てさせながら事前打合せをしたこともあった。取引先との夕食が終わったあと事務所に戻り、夜明けまでテレックスを打つことがよくあった。今のようにパソコンなどという代物がなく、タイプで穴を開けた鑽孔テープを使って送信機で送るのだが、穴を開けるのを忘れて最初からタイプし直すという苦い経験を思い出す。

私生活
 着任して約1年弱は単身生活を余儀なくされた。ある日公団輸入部長との商談の後で、「ワイシャツにかけるアイロンがなくて困っている」と話して事務所に戻ったところ、電話が鳴り「直ぐに来い」と言う。何か失敗をしでかしたかと恐る恐る部屋に入ると何と机上に一台の真新しいアイロンが置いてあった。「ミスター・イイオ、此処は共産圏だ。欲しい物は何でも手に入る。困ったことがあったら言え」と片目を瞑ってみせた。そんな時代であった。
 1980年初頭の日本人の数は150名程度で、その多くが商社、銀行、留学生、大使館関係者、ヒナの鑑定士であった。当時の日本人会は100名足らずのこじんまりしたものであったが、親睦団体として良く纏まっていたと思う。春先には日本から送られた8ミリ映画の「紅白歌合戦」を楽しんだ。年末にはドイツから料理人を呼び寄せて「寿司大会」を催し、多くの在留邦人が集った。参加者全員に概ね均等に握り寿司が行き渡るのだが、残った寿司をどう配分するかという段になって、「子供より大人が優先!」と言って騒いだのはどうやら私だけだったらしい。今もってそんなことを思い出す。やはり「食い物の恨みは恐ろしい」。何しろ当時は日本食屋どころか中華料理屋もなかったのだから。
 数年前にハンガリー滞在30年記念のパーティーを催したヒナ鑑定士の広江さんは、派遣員10数名のリーダーとして昼夜の激務を通じて貴重な外貨稼ぎをする先鋒を務めていた。同じヒナ鑑定士だった加藤弘治さんは良き友人である。仕事ではお互いに多忙を極めていたが、特に3〜5月の米作りで忙しい折りには日本からの来客のアテンドを頼んだり、3人の息子の遊び相手を押し付けたりして、今もって頭があがらない。現在は故郷の讃岐で保険代理店を営んでいる。この季刊誌の編集長である盛田さんとは随分長いお付合いである。国費留学で勉学に勤しんでいる氏が机に向かっていない時を知らない。それでも時には外に引っ張り出して、大使館に上手いこと言って買ってもらった卓球台で遊んだり、テニスを教わったり、オペラに連れてもらった。3人の息子は恐い私よりも盛田さんの方により馴染んだ。氏の翻訳した難しい本の数々は、今も時々まくら代わりとなっている。
 仕事の好敵手には伊藤忠の田路さんが居た。大抵の会社は所長1人の事務所であったが、伊藤忠と私のいる会社だけが2人駐在だった。当時若かった2人で仕事を競って取り合っていたのが懐かしく思い出される。伊藤忠の所長だった武井さんはつい最近までユーラシアスペッドの元締めであるアイロジスティックスの社長を務めた。毎年年賀状を頂いて恐縮している。思い起こすときりがない。「物」は無くても「心」の沢山ある時代であった。
 また機会があればこの続編を書いて見たいと思う。私は30年勤めた商社を1999年末に早期退職し、2000年5月からブダペストに滞在している。約1年半の準備期間を経て、2002年2月3日、55歳の誕生日に家庭料理の店「大吉」をブダペスト1区に正式開店させ、現在に至っている。