目の前にある写真の中のラツィ(ラスローの愛称)は、しゃれた赤い縞柄のパジャマ姿。気取って胸元に手を入れ、口元をほころばせている。寄り添いベッドに腰掛けているのは妻のマリアンナ。セント・ヤーノシュ病院の一室である。ちなみに、この病院の入り口右手にあるセント・ヤーノシュ像もマートンの作品である。

 私たちが彼に会ったのは、これが最後となった。彼が亡くなる2カ月ほど前の8月11日のことである。2年ぶりにブタペストを訪問した私たちであった。病室の壁面は高さ半分くらいまで水色のタイル張りで、まるで大きなお風呂場のようで寒い季節だったらつらかろうと思われる。食事の盆がおいてあったが、丸パン一つ、ミニトマト一つ、薄いソーセージ2枚と牛乳のミニパックだけで、マリアンナは毎日2回自宅から食事を運ぶとのことであった。痛み止めを飲んでいるから大丈夫と、しばしゆっくりとした時間であった。ラツィは半年ほどの闘病でやせてはいたが顔色もよく、全身が癌に冒されていて、もう手の施しようがないと聞いていたのが嘘のようであった。

 帰国してから様子を聞くと、希望どおりラツィは治療を受けながら家でやりかけの彫刻の仕上げをしているのだ、という。もう体力もなく、地下のアトリエには行けないので台所のテーブルが仕事場になってはいるけれど、ほとんど痛み止めのモルフィネに頼っているから、とマリアンナは電話口で泣いていた。彼亡き後を考えると押しつぶされそうに怖いと。

 
 それから2月もたたぬうちに訃報が入った。2人の娘(キンガ20歳とユリカ18歳)とみんなで手をつないで別れを告げたのだと、穏やかに逝ったと。在ハンガリー日本大使館の覚田広美氏からもご親切にお知らせを頂き、シグリゲットでの葬儀に花輪を送る手配をしていただけたのは有難かった。ぺシュトのバジリカでの葬儀には彼の死を悼んで沢山の参列者があったと後で聞いた。
 
 私たちがハンガリーに赴任したのは今から16年あまり前の1992年の夏のことであった。美しいブタペストの風景にすっかり魅せられていた私たちであった。王宮の丘のナショナル・ギャラリーに夫と訪れたとき、彫刻の部屋の片隅で高さ50センチほどの1つの小品に惹きつけられた。公園で遊んでいるのか、柵に座っている。お手製の王冠のようなものを被り、夢見るような瞳の7、8歳くらいかと思われる可愛らしい女の子の像である。夫はこんなのが買えたらいいねと一言。その頃、改装したばかりの公邸には、絵も置物も不足していた。丁度何か良い物はないかと探していたのである。その時は作者の名も知らずにいたが、偶然にもその作者から作品の写真集が送られてきて、その像がマートン作の「リトル・プリンセス」(1972年作)とわかった。それが縁で作者を訪れ、めでたくリトル・プリンセスは公邸の玄関に置かれることになった。恐れていたお値段も比較的リーズナブルで、何とか夫の懐で賄えたらしい。冷戦が終わってまだ2、3年の頃で、ブロンズなどを買う人があまりいなかったからかもしれない。彫刻家マートン・ラスロー一家とはその後今までの付き合いとなったのである。彼の気取らないそして暖かな人柄と対象への誠実さ、そして深い精神性が感じられる作品が好きである。リスト奏楽堂前のリスト像、国会脇の詩人像「ドナウの畔にて」など作品の数は多い。文化勲章に相当する勲章ももらっており、ハンガリーを代表する彫刻家だったと言ってよいだろう。
 
 2000年、日本での初代ハンガリー国王戴冠1000年記念ハンガリー・フェスティバルの一端を担って、彼の彫刻展が東京ほか2箇所で開催され、ハンガリー彫刻の水準の高さを示す好い機会となると共に、マートン一家の来日も実現した。できるだけ一家の滞在を楽しくしようと家にも食事に招んだのだが、彼らの家に比べて我が家があまりに小さいので吃驚したらしい。夫妻は彫刻展から離れられないのでキンガとユリカの二人女の子(その頃12歳と10歳くらい)の世話は私共の次女夫婦に任せ、デイズニーランド、浅草三社祭りなど案内した。海を見たいとの希望で一家揃って江ノ島行きとなったが、ハンガリー語をなさる岩崎先生が付き添ってくださったので本当に有難かった。波打ち際で何枚ものスケッチをしていたラツィの姿を思い出す。車窓から景色を楽しみつつも、「なぜ電線が幾重にもぶらぶら引かれているの?」、「なぜ洗濯物やマットレスを他人に見えるところに干すの?」と不思議だったらしい。京都見物は、その頃京都の大学で教えていた夫が引受けてくれ、竜安寺ではユリカが素直に瞑想を試みていた由。キンガには大変日本の印象がよかったらしく、学校で写真、みやげ物をみせながら大いにレクチャーをしたと後で聞いた。マートン一家にとって訪日は一大イベントであったと思う。展覧会の実現は日ハ友好協会の英断であった。
 
 任国での家族ぐるみの付き合いが深く、長く続いていくのは、なかなか難しいではないかと思うのだが、私どもにとってマートン一家のこの15年以上にわたる友情は、最後の任地ハンガリーへの私たちの特別な思い入れと重なって貴重なものである。  
 
 ラツィ亡き後マリアンナは彼の遺作の整理、管理に忙殺されているけれど、こころには「穴が開いたまんま」と先日の電話で話していた。キンガの娘ヨハンナ(0歳)も大きくなってきたし、キンガは育児と大学の卒論で忙しい。ユリカは行く道をあれこれ考慮中とのこと。2009年5月にモスクワでラツィの遺作展が開催されるので準備も大変と言う。ラツィが逝き、私共しみじみと時の流れを思う日々である。 
 
 池袋の東京芸術劇場大ホールのフォワイエに大きな方のリトル・プリンセス像が置かれているが(高さ170センチ、1990年作)、これはマートン彫刻展の東京会場となったのが芸術劇場のギャラリーで、その記念として氏より東京都に贈られたものである。ブダペストのドナウ河畔の柵にもこれと同じサイズのこの像が坐っている。