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『ハンガリーに戻ってきた理由』
三川 桃
私が初めてハンガリーの地を踏んだのは2004年の8月、18歳の時でした。あるハンガリー人の友達による短期留学プランに参加したことがきっかけでした。そもそも私がハンガリー語を勉強するようになったのは、大学受験の時に「誰もやってないことがしたい」と思っただけ、という単純なものでした。唯一ハンガリー語専攻を設置している旧大阪外国語大学で学び始めて半年もしないうちにハンガリーへ行くことにしました。初めての海外で、ましてや半年も勉強しておらず「右も左もわからない」状態でした。プログラムそのものは日本人グループと一緒だったのですが、ハンガリー人の家族のところにホームステイしていたので「座って」という単語すら聞き取れず、ホームシックになった記憶があります。しかしとても親切に優しく接してくれる家族、興味を持ってきてくれるハンガリー人の学生、ひょんなことから文通をすることになったkocsma(飲み屋)で知り合った男の子(そして5年以上になる今日も彼との文通は続いています)、おいしい料理、プスタに広がる大自然、歴史を感じる建築物など、楽しい要素がいっぱいでハンガリーがとても好きになりました。2005年の2月にも同様のプログラムに再び参加するほどハンガリーがお気に入りになりました。連絡が取れる友達がいることがとても嬉しく思いました。
そうこうするうちに、ハンガリー政府奨学金の面接試験を受け、1年ハンガリーへ留学する決意をしました。私が選んだのはデブレツェンでした。2006年の9月、どこに何があるのかも全く分からない、知り合いもいないデブレツェンでの生活が始まりました。到着当日から手配ミスにより居住場所が確保されていないというトラブルを発端に、問題続きの日々との戦いでした。3人相部屋、6人1ユニットの寮生活。もちろんルームメイトとの間にトラブルはたくさんありました。3ヶ月くらいひたすら忍耐しました。でもいつも必ず誰かが励ましてくれました。鞄をスーパーで盗まれた時も、見ず知らずのおばちゃんが旦那さんと一緒に警察に連れて行ってくれたり、寮まで奥手くれたり面倒をよく見てくれました。そして何よりも私のかけがえのない存在は、通っていたホルトバージ民族舞踊団です。年齢層の広いハンガリー人との週2回の練習が私のデブレツェンでの生活には欠かせない存在でした。色んなお祭りや舞台に連れて行ってくれたり、日本料理を作る会を開いてくれたり、するっと私を受け入れてくれました。ゆったり流れる時間、心から笑える心の豊かさ、お客さん好きな民族が大好きです。ハンガリーでの生活は、ひたすら飲んで、踊って、飲んで、喋って、踊って、飲んで、喋りました。全くまじめな意見ではありませんが、ハンガリー人を知るためにはすごくいい手段です。
多くの人に支えられて過ごしたハンガリーでの10カ月を終えるころには「もうハンガリーに戻りたくない」と言っていた覚えがあります。楽しいことの反面、つらかったことも嫌だったこともたくさんあったからです。それから2年の間はハンガリーに行かず、2009年3月に大学を卒業しました。気がつけば私は就職せずに再びハンガリーへ行く準備をしていました。自分の中で何か、違和感が残っていたからです。そうして2009年9月、私はまたハンガリーに降り立ちました。「何かを探すために」。
相変わらず問題だらけの日々ですし、1か月も使ってない自転車も盗まれましたし、ビザの取得にも6回以上入国管理局に通う始末でした。それでも、私の話に耳を傾けアドヴァイスをくれる友達がいること、各地に会いに行ける友達がいること、何気ない出会いが温かいことの幸せさに再度気づかされ「戻ってきてよかった」と思います。
良く言ったら大らかで寛容、悪く言ったら大雑把で適当なハンガリー人ですが、憎めない彼らとの生活の中でのびのびと暮らせる魅力を知ってしまった私が再びハンガリーに戻ってきたことは、強ち間違いではなかったのでしょう。
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Web editorial office in Donau 4 Seasons.