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『あわてず、あせらず、あきらめず』
ELTE教育学部教員養成科 大山 彩 |
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1995年12月、当時10歳の私は地元の合唱団の演奏旅行で初めてハンガリーを訪れた。ハンガリー人はとにかく素朴で優しく、遠く日本からの来客を精いっぱいの気持ちを込めて出迎えてくれた。コンサートではハンガリーの合唱団と共演し、言葉や文化の違いをこえて歌声を合わせ、それはまるで水の輪のように広がった。あのなんとも言えない心地よさが私を虜にさせ、この地にまた呼び戻したといっても過言ではないと思う。
しばしばハンガリー人達は「音楽なら他の国でも留学はできたのに、どうしてハンガリーに来たの?」と私に聞いてくる。そんな時私はこう言うことが多い。「9歳のころからハンガリーのわらべうたに触れて、ハンガリー語の合唱曲を歌い、それらをコダーイメソッドで教わっていた私にとって、ここに来ることはある意味自然だったと思うよ」と。実際ここに来て、コダーイメソッドの一つの特徴といえるソルミゼーションやハンドサインも、幸い小さいころからずっと触れていたものだったため、すぐに合唱や教授法の授業にもなじめた。
18歳で渡洪して早6年弱。ELTE大学では人文科学部音楽科合唱指揮専攻と教育学部教員養成科に所属している。しかし「合唱指揮」と聞いて“?”が頭をよぎる人も少なくないと思う。普通、指揮と言えば指揮棒を持ってオーケストラの前に立っている姿を思い浮かべると思う。「合唱指揮」というのは日本では非常にマイナーだが、簡単に言えば合唱曲を専門とする指揮者のこと。また、合唱付きの交響曲やオペラなど、オーケストラを伴う作品において、合唱団のみを事前に指導する者の事を言う。だから、オーケストラを指揮する講習会などがない限り、指揮棒を持つことはない。 |
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音楽科の授業で興味深い事の一つは、日本では約2〜4週間ほどの教育実習が、ここでは2年間毎週2回あることだ。最初の1年は先生や先輩が教えているのを見学し自分のとったノートを提出する。2年目からは教える立場に立って、担当の先生に色々なアドバスをもらいながら卒業試験に向け「教える」ことの練習をひたすら繰り返す。2年目の初めに希望する学校を変更することも可能だか、基本的に1年間同じ学校の同じ学年を受け持つ事によって、子ども達の性格やクラスの雰囲気をじっくりと時間をかけて知ることができる。もう慣れてはきたが、ハンガリー人にハンガリー語でハンガリーの民謡を日本人が教えるという風景は、客観的に見てもとても不思議な感じがする。初めはネイティブの発音で歌えない私をくすくすと笑っていた子どもたちも、最近は言葉に詰まっていても何を言おうとしているか集中して聞いてくれたり、板書が間違っていれば直してくれたりする。こういった関係も時間をかけることによって築けるものだと思う。
大学では合唱指揮専攻というだけに、合唱の授業は毎日2時間ほどあり、指揮法は週に1回2時間、だいたい6人ほどの少人数で行われる。また、ソルフェージュや和声学などの授業のほかに、音楽史やハンガリー音楽史、ハンガリー民謡、合唱指導法、民族舞踊、教授法などがあり、必修科目としてピアノと声楽のレッスンを受ける。副科の教員養成科では、教育学、教育学理論、教育心理学、発達心理学の他に、教員になるために必要と思われるさまざまな要素を養うためのゼミが20ほどある。その他、一般教養として哲学と経済学、卒業資格を得るために第二外国語の中級と第三外国語の初級を取得しなければいけないなど・・・卒業までには色々なハードルがある・・・。
振り返ってみると本当に山あり谷ありのハンガリー生活だが、やっと大学卒業という一つのゴールが見えてきた。歩みは決して早くはなかった。語学力がなかったために、カメどころかカタツムリの速さでゆっくりゆっくり進んできたが、だからこそ実感できる事がたくさんあった。その一つが、慌てず焦らず諦めずじっくりやることの大切さ。そして何よりも強く思うのは、「私はここで生かされている」ということ。たくさんの人との出会いと励ましの言葉や手助けがなければ、きっと私は今こうして暮らせていない。
ここで学んだことを生かし、近い将来日本へ帰国して、自分が子どものころから描いていた夢に少しでも近づけたらと思う。 |
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