昨年春、国境なき記者団が毎年発表している「世界報道自由度ランキング」の2020年度版が発表された。明治時代より続く閉鎖的な記者クラブ制度などが国内外の批判を浴びていることから、日本の順位は180カ国中66位だった。これはG7の中では最下位である。しかし日本以上にメディア政策が批判を浴びているハンガリーは、89位。昨年はオルバーン政権が非常事態宣言中にメディア統制を強化したり、国内最大の独立系メディア”Index”の編集長を解任に追い込んだりと報道の自由が脅かされており、今後更なる順位の降下が予想される。


《注1 フォトキャプション》ロバート・キャパのプラーク(Városház utca 10)。彼は1954年にインドシナの戦場で死去する直前に、日本を訪れたそうだ。


 そんなハンガリーという国の大学院で、私はメディア論を学んでいる。メディア論の修士号を取得できる大学院など、別にハンガリーだけではなく、日本にも他国にも存在する。その上、前述した通りハンガリーのメディアは危険に晒されているのだ。しかし私はどうしてもこの国で学びたかった。

 私とハンガリーとの出会いは、5年前に遡る。当時大学で日本語教育を専攻していた私は、日本語を学ぶ留学生のクラスにボランティアとして参加した。そこにいたのが、ハンガリー人留学生のRさん。そこでRさんと友人になって以来、彼女はハンガリーの文化や言語、歴史など様々なことを教えてくれた。ヨーロッパに位置しながらも日本と数多もの共通点を持つハンガリーという国に、私はみるみるうちにのめり込んでいき、卒業後は何としてでもハンガリーに留学することを決意した。
 そして転機は2019年に訪れる。私は当時偶々履修していた授業で、メディア論に深く傾倒する。こんなにも面白い学問があるのか。じゃあハンガリーの大学院ではメディア論を専攻しよう。このような調子でハンガリーのメディアについて調べてみると、目にしたのは「言論統制」「報道監視」「プロパガンダ」などの強烈な言葉の数々。日本ではなかなか目にすることのない言葉だ。…なるほど面白い。尚更ハンガリーでメディア論を学ぶ価値があるではないか。日本と同じような国で学ぶよりは、幾分価値があるだろう。その上ハンガリーは旧東側諸国であるから、日本とは異なった視点でメディアを研究できるはずだ… そういう訳で、私は現在ハンガリーでメディア論を学んでいる。
 私が学んでいる学校は、元は私の専攻分野に特化して創立されたという経緯があるそうで、それ故に素晴らしい教授陣から学ぶことができている。日本と比較すると課題の量はかなり多いが、それでも今が人生で最も勉学を楽しんでいる時だと断言できるだろう。修了までの限られた時間を有意義に活用し、知見を深めるために多くのことを主体的に吸収していく所存である。
 


《注2 フォトキャプション》テレフォン・ヒルモンドのプラーク(Rákóczi út 22)。1894年からこの建物で運用が開始された旨が記されている。
 また日本国外でメディア論を学びたいという者がいたら、是非ハンガリーを薦めたい。実はあまり知られていないことだが、上述したようなことはさておき、ハンガリーとメディアは意外と歴史的に結びつきが強いのだ。世界で最も権威あるジャーナリズムの賞の一つである「ピューリツァー賞」の創設者ジョーゼフ・ピューリツァー、しばしばコミュニケーション論とメディア論の分野で引用される「涵養理論」を提唱したジョージ・ガーブナー博士、「崩れ落ちる兵士」などで知られる著名な報道写真家のロバート・キャパらは、皆ハンガリー生まれである。またラジオ放送の先駆けであり、電話でニュースや音楽などを配信した「テレフォン・ヒルモンド」は、1893年にブダペストで開局した。まさにハンガリーは色んな意味でも、「メディア国家」と言えるのではないだろうか。
 このようにメディアの歴史が豊かなこの国でメディア論を学んでいることを、私は誇りに思っている。「ハンガリーでメディア論を学ぶ」ということ、それは私にとって必然であったのかもしれない。またハンガリーのメディアに関してはネガティブな側面ばかりが強調されがちではあるが、本稿が他の側面にも関心を向けるためのコンパスとなることがあれば、この上ない本望である。

(ひが ゆうや)