さて、前号では「境界の存在」の意味と分類について記し、今号では宮崎駿監督による『千と千尋の神隠し』(2001年)及び『ハウルの動く城』(2004年)における「境界の存在」の分析について記します。まず、前号でわかった4つの興味深い点に沿って見ていきたいと思います。
第一に、「境界の存在には色々な種類がある」ということです。両映画が境界の存在に満ちている事は明らかです。千尋は幼い子供で、ソフィーは十代の若い女性ですが、二人とも大人のマナーを知る為に、子供の日常から大人の世界に強制的に引きずり出されてしまいます。千尋が働く事によって礼義と責任感を学ぶのと同様に、呪いをかけられておばあさんの体になったソフィーは、自分以上に誰かのことを思って、その誰かの為に行動するという経験をします。
しかし、千尋とソフィーには大きい違いがあります。千尋は自らの行為によって境界を越えますが、一方、ソフィーは解けない呪いのせいでそのトランスグレッション、境界破りを自分の体の中に持たなければならなくなります。その為、千尋と違って、ソフィーは永久に境界の存在のままで生き続ける運命なのです。同じく境界性を体内に持っているものには他にも、ハウルとソフィーに呪いをかけた荒地の魔女と、ハウルの心臓を持った火の悪魔カルシファーと、呪われてかかしになった王子カブがいます。具体的には、ハウルと荒地の魔女、そして湯婆婆は三人とも人間と動物の間の存在で、黒くて大きくて怖いカラスに化ける事が出来るキャラクターです(カラスには力と暴力と死のイメージが付いているからでしょうね)。
別の観点から見ると、両映画の中に子供と大人の間の状態であるキャラクターがかなりいます。千尋も坊も千尋の両親も、そしてソフィーもハウルも少年マルクルもカルシファーも荒地の魔女も、ある意味で大人を気取っているただの子供に過ぎないと考えられます。これは一体どういう意味なのでしょうか。
第二に、「境界のキャラクターはファンタジーの登場人物だとは限らない」ということです。この二つの映画はファンタジーですが、設定や登場人物がファンタジーであっても、キャラクターの目的は世界の救済などではなく、意外と普通です。千尋もソフィーも頼もしい大人になって自分の家族を取り戻す事あるいは作る事を目指しています。両方とも、ある意味で「日常系アニメ」であるとも考えられます。なぜなら、ストーリーをあまり進展させず、ただ主人公の日常生活と家族や同僚との関係をゆっくりとしたペースで表すシーンがたくさんあるからです。境界の存在で溢れているアニメ世界の中でもこういった日常系ファンタジー作品はスタジオ・ジブリならではの名作であるとも言えます。
第三は、「境界の存在は必ずしも危険なモンスターではない」ということです。この二つの映画では、主人公は二人とも境界の存在であることを恨んで悩むより、先に進んで一刻も早く一人前になる為に努力をする道を選びます。この前向きな態度のおかげで、自分自身にも社会にも危険をもたらさないのです。しかも、実に人間味があるので、視聴者も感情移入せざるを得なくなります。
第四は、「境界の存在の多くは、何らかの社会問題に関する不安を表現している」ということです。映画の裏に描かれた社会問題を理解する為には、主人公達個人の変化と、キャラクターとキャラクターとの関係をもっと深く分析しなければなりません。 |