世界は休みなく流れていく。大きい河のように、過去から無限の未来へ向かっている。我々の人生も同じようなものだ。生まれてくる瞬間から死ぬ時まで一秒も休まずに続けていく。しかし、我々の人生は世界の河とは違う。我々の人生は無限ではなく、むしろ世界の流れからみれば一滴の水に過ぎないものだ。人間という存在は、時間が大変限られている。
 私は、最近迷いながら色々な考えごとをしている。今まで生きてきた人生は正しかったか。振り向いたら後悔ばかりではなく、いい思い出だけが並んでいるのか。これからの将来はどうなるのか。本当に進むべき道を歩いているのか。不安のあまり、目の前にある道さえもかすみ始める。困惑で天からの導きを悲願しても、答えは出ない。そこで、その迷いの埃が積もった隘路に座り込み、顔を手に埋める。そうして考える。考えて、考えて、たくさんの考えが頭に浮かんでくる。そしてそこで、ある瞬間に、その埃の積もった隘路の上で、自分の真実をわかった。

 
人は鳥のように空を飛べないと思われている。自然が飛ぶ能力という恵を人間には与えなかったからだ。だから、飛ぼうとしても、太陽に接近しすぎたイカロスのように結局自分の羽を固めた蝋が溶け、墜落せざるを得ないという。しかし、私が気づいたのは、人間も飛ぶことができるということだ。人間に本当の翼を与えるのは、自分で抱えている夢だ。
 私は夢見る少女だった。寝ても起きても、夢に乗ってピーターパンのように青空を走っていた。時には翼を広げて見ず知らずの国々を飛び回り、夢で思い描いた国を訪ねた。時には将来の方に向いて家族と幸せな日々を送っているキャリアウーマンの姿を見た。乙女の夢でよくあるような、白い馬に乗っている、優しい笑顔の王子様も何回も想像した。夢を見れば日常生活から脱出できた。
 しかし、夢が与える可能性はこれだけに限られていない。夢はモチベーションの源ともなる。私は小さい子供の時から抱いていた夢をもって、それを叶えるために常に努力してきた。小さな進みでも計り知れない喜びを感じて、羊雲と一緒に青空に浮かんでいるようだった。この浮かんでいる気持ちは私にとって何よりも大切で、どうしても放したくなかった。つらい時もこの気持ちにしがみつき、一つの大きい夢のために最大限の努力を払った。そしてあの日、何年間もの尽力の結果として、夢を叶えた。
 その日は初めて実際にも空を飛んで、夢の方向に向かった。毎日は信じられないほど不思議で、新しい冒険を追いかけながら日々を過ごした。私は、幸せだった。
 しかし、その 1年間の夢も終わりを告げた。やはり人間は空を飛ぶ生き物ではないと思った。太陽に接近したら結局自分の羽を固めた蝋が溶け、墜落せざるを得なくなる。私も夢の青空から地面に落ちてしまった。
そしてそのまま時間がたつと、ある日何かに気づいた。心はいつの間にか空しくなり、昔の空飛ぶような軽い気持ちが消えて、不安と心配の鎖に縛られるようになっていた。私は、夢見ることをやめた、ということに気づいた。
 人はなぜ夢見ることをやめるのだろうか。これは大人になるという恐ろしいことなのだろうか。ピーターパンのように空を飛べたのに、いつの間にか役割が変わり、ウェンディと一緒に大人の世界の心配事を背負うようになった。怖くて不安な毎日の中で夜明けさえも黒かった。理由も知らず、羽が折れたまま単調な生活を躓きながら送っていた。
 しかし、私はそこで、その埃の積もった隘路の彼方で光が見え、自分の真実が分かった。人間は大人といっても、夢を見るべきだ。一つの夢を叶えても、何度も新しい夢を探るべきだ。人間の時間は限られているからこそ、夢に乗って、風に乗って、単調な毎日の壁を突き破るべきだ。そして何よりも、大きい夢を見る勇気を持つべきだ。夢のない人生は滲んだ鏡のようにいびつな現実を映している。我々はそのいびつな現実を本物だと信じがちで、そのせいで最後の希望もあきらめるようになるのではないのか。自らの夢を大切にして、毎日そのために頑張る生活は幸せだと、私は思っている。
 夢なら、どのようなものでも大丈夫だ。みんなは自分の人生の主人公であるため、正しくない選択なんてない。すべては正解なのだから。何をしても、どのような判断をしても、自分の知識が増え、経験を得ることができる。人生は七転び八起きのゲームだからだ。しかし、夢や努力をあきらめることは自分の翼を折ることと同様だ。人間は翼があるからこそ、この一滴の水のような生活を後悔なく、空を飛びながら過ごすべきだと、私は信じている。