今から遡ること数十年。「明日から夏休みだ!」机の中、ロッカーにかけてあるもの、上履き、給食袋などを両手に抱え、家路を急いだ1学期最後の日。東北は山形で育った小学生の頃の私には1ヶ月足らずの夏休みでしたが、その頃の私には、そのスタートはいつも永遠に続くパラダイスの始まりのように感じられました。
 普段なら朝6時半に起きて、たいして食欲もないのに朝ごはんをとりあえずお腹につめこみ、決められた時間までに登校して、授業を受けて、そして毎日の宿題や習い事をこなします。そんな日常からしばし解放されるのが夏休みです。海だ、キャンプだ、祭りだと、様々な行事に毎日が期待でいっぱいです。花や木、草の色が濃さを増し、いつもより濃厚な時間がゆっくり流れている感じに浸ることもできます。
 一方、現在2人の娘の親となった私は、テレビにかじりつく子供を叱り、宿題やらせなくちゃとイライラを募らせ、この日は誰に預かってもらおうかと頭を悩ませ、毎日続く暑さにぐったり。それでも、せっかくの夏休みなんだから子供たちを外の空気に触れさせようと、公園や行楽地に足を運ぶ生活をなんとか送っているのでした。

 そんな折、補習校から出された夏休みの宿題のリストを見ると「かんさつ名人になろう」という項目が目に留まりました。生き物や植物を観察して、その長さや形、大きさ、色などを詳しく自分の言葉でまとめる宿題です。夏休みと言えば、自由研究、そして何かの観察など、「ある対象をじっと見つめる宿題」が課されるのがやはり伝統のようです。テレビの前でくつろいでいる娘と、白紙の宿題を見て、私はまた焦りました。「何のことを書こうか。ばあちゃんちでクワガタ見つけて飼ってみたけど、そのことにする?教科書にはカタツムリが葉っぱを渡るところが書かれているけど、どうする?」。まるで、「自由研究どうしよう~」と泣き泣きオジギソウを観察していた昔の自分に戻ったようです。そして、「観察」は後回しになったまま日々は過ぎていきました。
 ところがある日、娘が自宅の水槽で飼っているカエルを見ながら涙ぐんでいるのを発見しました。水槽の中のカエルたちは、今年の夏の初めに卵から孵り、私が子供たちを連れて実家に帰省している間に、オタマジャクシから成長していたものでした。
 「どうしたの?なんで泣いてるの?」
 「…だって、このちっちゃいカエルかわいそうなんだもん。足がびよーんって伸びてて、なかなかうまく飛べなくて…。でもがんばってジャンプしてる」
 はっとしました。娘はこの指先ほどの小さなカエルの命と、卵の頃からじっくりと向き合い、自分の目と心でずっと観察を続けていたのです。たくさんのオタマジャクシがカエルに成長したものの、中には足の曲げ伸ばしが不自由なものもいて、彼らはえさにありつくのもなかなか難しいようなのです。娘はそれらにちゃんと気づき、不憫に思ったのでしょう。部屋の真ん中に、一時的に置いてある水槽を、掃除の邪魔だなあくらいにしか思って興味を持っていなかった私ですが、そのときは一緒に水槽を見つめ、一緒にカエルを観察してみました。そして、寝ているカエルがどんな姿勢をとるのか、どんなふうに目を閉じるのか、どんなふうにジャンプするのかなど、娘の言葉に耳を傾けてみました。

 そして気づきました。いつまでも観察の余裕をもてないのは、日々の生活に追われる大人の私だったのです。思えばこの夏、娘はいろいろな対象を鋭い観察眼で見つめていました。家庭菜園のナスやトマトが日々大きくなり色づき、その収穫の時期を教えてくれるのも、大雨の前にアリが行列を作って歩くことにいち早く気づくのも彼女でした。
 さらに、身の回りで起きていることだけではなく、自分の心の中もじっくりと観察していました。「お父さんはハンガリー人で、お母さんは日本人で、自分はなんだろう」。アイデンティティに関する疑問は、思春期あたりに湧き上がるものと勝手に思い込んでいましたが、もうすぐ8歳を迎えようとしている娘の口からこの言葉を聞いたときに初めて、娘が周囲の人間関係を観察し、こんなふうに心を悩ませていたことに気がついたのです。
 それからは、お風呂でリラックスしているとき、寝る前に本を読み聞かせた後など折を見て、彼女の「今日の観察」に耳を傾けることを(なるべく)心がけています。
 毎日決まった時間に起きなくてもいい夏休み。ちょっとくらい食事の時間がずれたって、文句を言われない夏休み。だからこそ、疑問を持って立ち止まり、それと真正面から向き合うことが許されるのだと思います。そんな夏休み、小さくても確実な成長や、子供の真剣なまなざしに気づくことができる「観察名人の親」になる意識、余裕を持つチャンスを与えられているのかもしれません。今、日本では夏休みが短縮される動きがあるようです。親にとっては、預ける場所に頭を悩ませなくてもいいというメリットがあるかもしれませんが、何か、親子共々貴重な時間を失ってしまう気がして寂しい限りです。こちらハンガリーに住んでいると、夏休みの最後には「もうそろそろ学校始まってもいいんじゃないかなあ」なんて思ってしまいますが、休みに飽きてしまうぐらいがちょうどいいのかもしれませんね。今、また新学期が始まりました。毎日の生活は、やっぱりどたばたしています。充分長い休みをとらせてもらいましたが、やっぱり夏休みがちょっとだけ懐かしいです。

(わたなべ・かおる)