大学教員になりたての頃、ゼミの学生を連れてスキー合宿に行った。食事が済んでカラオケタイムになり、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」という定番の歌謡曲を歌ったが、学生たちはきょとんとしている。無理もない、この曲は学生たちが生まれる前にヒットしたものだ。彼らが歌うものは皆躍動感があって、テンポが速かった。歳の差を感じて白けたのを覚えている。
 1988年に二度目のハンガリー長期滞在が決まり、すぐにブダペストのアパートにピアノを借りた。件のカラオケに懲りて音楽ジャンルを変え、日本から持参したのは小椋佳、来生たかお、井上陽水、五輪真弓などのニューミュージック系の楽譜。一人住まいだったので、毎夕、弾き語りで遊んでいたが、このハンガリー滞在中にさらに音楽のジャンル趣向が変わった。
 1970年代の終わりにハンガリーに留学して初めてオペラ芸術なるものを知り、88年から2年間は足繁くオペラハウスに通った。とくに、モーツアルト「ドンジョヴァンニ」とプッチーニィ「ボェーム」の二つのオペラは繰り返し鑑賞したが、出張の度にベルリン、ミュンヘン、プラハ、ウィーンでオペラ劇場を探し、「ドンジョヴァンニィ」の舞台を楽しんだ。このオペラ熱が高じて、昼休みごとにペトューフィ・シャンドル通りの楽譜屋(ロージャヴュルジ)に通い、オペラのピアノ譜を買い漁りだした。ドイツのPeters Edition社のオペラピアノ譜を安く買えるので、ピアノ譜が入るたびに買い求めた。
 「ボェーム」はプロの音楽家にも人気がある。マエストロ小林はルドルフのアリアを弾き語りするし、やはり指揮者でハンガリーの故ルカーチ・エルヴィンは暗譜で「ボェーム」を振っていた。ピアニストの加藤洋之君も、我が家でいきなりムゼッタのアリアを弾き出し、「これが好きなんだよね」と語っていた。このオペラはプッチーニの最高傑作で、これ以外のオペラは無駄があり退屈する。「ボェーム」は起承転結が明瞭で、アリアやドュエットが散りばめられている。モチーフの旋律が一貫して流れて、時間的にも短い。そこが音楽家にも好まれるところだろうか。
 私はピアノや歌唱の教育を受けていない。自己流だから、絶対的な限界がある。急に思い立って中学生の時に2年ほどピアノを習ったが、家にはオルガンしかなく、歯がゆい思いをした。しかも、団塊世代の受験競争で、すぐにピアノから遠ざかってしまった。それから数十年の時間を経て、1990年代初めに「炎の指揮者コバケン」こと小林研一郎さんと出会って、音楽の世界が広がった。「門前の小僧習わぬ経を読む」で、マエストロのリハーサルに立ち会ったり、ホームコンサートに来ていただいたりして、発声や歌い方などを教わった。ピアノは駄目でも、歌と一緒の弾き語りなら、なんとか形になるのではないかと、無謀にもオペラのピアノ譜で弾き語りに挑戦しだした。
 幸い、私の周りにはたくさんの音楽家の友人がいる。もっとも古い仲間が坂井圭子さんで、ハンガリー野村証券で最初に採用面接して以来、何かの催し物がある度に共演をお願いしている。ムッゼタのアリアはホームコンサートの定番で、私が弾ける数少ないアリアの一つ。ジョヴァンニィとツェルリーナのDuettinoは小さな集まりで披露するかくし芸。最近は、国立フィルのバルタ・ジョルトとモルナール・ジュジャンナ夫妻のチェロとバイオリンをバックにして、歌曲や日本のポップスを歌うのが楽しみになっている。
 昨秋来、日本へ出張する度に、機内で最新のポップスを聴いている。順々に最初の出だしの20秒程度を聴く。子供のグループがワイワイ騒いでいるような雑音は出だしの数秒で駄目を押す。長く歌い続けられる、しっとりと聴かせるような旋律に出会うと、最後まで聴く。これまでの収穫は「コブクロ」。彼らが自分の味付けで古いヒット曲を歌っているのが気に入った。そこから、尾崎豊「I love you」と槇原敬之「Answer」を選び、インターネットで楽譜を購入した。昨年のクリスマスはチェロ、バイオリン、ピアノをバックにAnswerを歌った。ただ、これはもう20年ほど前のヒット曲で新曲ではない。もっと新しいものがないかと探していたら一つ収穫があった。「指輪」(Nagy & Ivory)のCDを購入したところ、「最愛」という曲が付属していた。「指輪」は結婚式などで結構使われているヒット曲だが、この「最愛」はほとんど知られていないいわゆるB面曲。ところが、「指輪」より詩も旋律も良く気に入った。これもインターネットでピアノ譜を購入した。今冬のクリスマスパーティにはこの曲の弾き語りが披露できそうだ。
 最近、バルタ・ジョルト夫妻からもらったセシリア・バルトリのCDがすごく良い。最初の曲がヘンデルのオペラ「リナルド」のアリア「私を泣かせてください」。彼女の歌には感情がいっぱい込められている。日本でも岡本知高がテレビドラマの主題曲として歌っているが、これは淡谷のり子が歌っているようで気持ち悪い。NHKの朝ドラで鈴木慶江が歌っていたのもこの曲だが、彼女が歌うと文部省唱歌になってしまう。バルトリを聴いてしまうと、やはり日本人には歌うのが難しいと考えさせられる。YouTubeを見ると、ニュージーランドの若い歌手ヘイリー・ウェステンラもこれを歌っている。日本でも知られている歌手だが、彼女の「私を泣かせてください」は別の意味でいただけない。歌詞の内容を知らないのか、明るく一本調子に歌っている。マエストロ小林がこれを聴いたなら、「君は下手だね。歌詞を勉強したの? 家に帰って、もう一度歌詞を勉強してからいらっしゃい」と、リハーサルから下ろされるだろう。7月のホームコンサートでは、ホストの特権で、バルタ夫妻に井上奈央子さんをバックにこの曲を歌わせてもらった。もちろん、バルトリが歌うように、心をこめて。

(もりた・つねお)