私たち家族がハンガリー・ブダペストでの生活を始めてから、はや1年が過ぎました。ハンガリーに来る直前はイギリスに3年半いたので、海外生活は足掛け4年半になります。私も妻もこれが初めての海外生活。二人とも、元々外国語が得意で海外に住むことを志向していたようなタイプではなく、日本にいた時は、いわゆる「外国人」に話しかけたことも無ければ、むしろ話しかけられないよう努めていたような次第で、「外国」や「外国人」を自分が今いる世界とは切り離して異質なものと捉えている典型的な(?)日本人でした。そんな調子でしたから、海外への転勤が決まった際も、現地での生活が全くと言ってよいほど、想像できていませんでした。
 そんな頼りない両親に率いられて、海外にやって来た二人の息子たち。長男次男ともイギリス時代は、近所のInfant schoolに通っていました。長男の登校初日、息子が、緊張で身体を強張らせながらも、「ママ、僕、一人で大丈夫だよ」と気丈に振舞って学校に入っていった、という話を後で妻から聞き、当時、慣れない仕事で苦労していた私は、「私は、一人で大丈夫だよ」と言えるだろうかと自問させられ、同時に、逞しくなった子どもの成長を嬉しく思ったものです。その後、次第に学校にも慣れ、友達も増え、自分のことを日本人というより「英語人」というアイデンティティで認識するようになった長男は、ハンガリーに来た現在も、イギリス時代同様、平日は英語の学校、土曜日は日本語補習校という生活を送っています。
 ハンガリーでの学校選びにおいては、もちろん日本人学校という選択肢もありました。今後もずっと海外で生活するわけではなく、近い将来、日本に戻るということが明確でしたし、子どもの日本語教育のことを考えると、どちらにすべきか、実際判断に悩むところでした。どちらが正しいということは無いと思いますが、我々の場合、長男自身が「英語の学校に行きたい」と意思表明したことに加え、両親がこれまで育ってきた背景も影響していたように思います。それは、先述のように我々夫婦がこれまであまりに海外と無縁で、「外国」や「外国人」を遠く感じていた、という点です。
 海外で生活してきて強く思うのは、これは至極当たり前のことなのですが、外見や言語、文化風習こそ違えど、所詮、人は人だというシンプルな事実です。日本以外に住む人々も決してstrangerではないということ。頭では理解し、口では相応に形容していたかもしれませんが、思い返すに、かつての私は無意識に違う目線で彼らを捉えていたかもしれません。私は大人になって、たまたま海外で生活する機会を得、この当たり前のことを漸く当たり前に感じられるようになってきましたが、子どもたちにはこの機会に、日本人と「外国人」を隔てる、国籍や人種、言語といった付加的なものをなるべく意識しないで、フラットな目線で、シンプルに他者と出会えるような、そんな感覚を自然と身に付けられる環境で育って欲しいという思いがありました。少し大げさですが、このことはまた、彼らが将来、大人になる過程で何かしらの困難に遭遇した時に、日本、あるいは日本人という制限されたパースペクテイブだけに囚われず、より広く周りを見渡して、問題と対峙することを可能にするようにも思うのです。長男の学校選びの際にあったのは、このような背景でした。
 ただ、こんな、親の無いものねだり(エゴ?)をベースにした学校選びを可能にしているのは、言うまでもなく、みどりの丘補習校の存在があるからに他なりません。将来的には日本に帰ることを前提としている以上、たとえ今は
普段の学校生活が英語主体であっても、母国語である日本語を疎かにはできないからです。すっかり「英語人」になってしまった長男の話す日本語は、時にアクセントが英語調になっていたり、英語をそのまま直訳したようなぎこちないものだったりします。また、言葉だけでなく、例えば、授業に臨む態度も、日本の学校の子供たちとは少し違っているようです。みどりの丘補習校の先生方には、こんな息子を広い心で受け入れ、日本語、また日本文化の素晴らしさを教えてくださり、大変感謝しております。
 ところで、長男は、イギリスでもロンドン補習校に通っていましたが、私見では、ブダペストみどりの丘補習校は、より先生と生徒、またその親との関係が近く、関係者が皆で一体となって作り上げている手作り感があるように思います。また、異なるバックグラウンドを持つ生徒が集まっていることも特色の一つではないでしょうか。例えば、息子が通う2年生のクラスは全員で7人ですが、それぞれの生徒が普段の学校で使っている言語は、ハンガリー語、英語、フランス語という具合に多岐にわたっています。当然、日常における日本語との距離もそれぞれに異なり、日本語の習熟度合いも異なるわけですが、興味深いことに、子どもたちにとって、これらのことは友達になるための障壁にはならないようです。休み時間ともなれば、学年に関係なく仲良し同志が集まって、楽しそうに遊んでいる姿をそこかしこに見かけます。彼らにとっては、何語が第一言語か、といったようなことは特に大きな意味を持たず、単純に所与のものとして受入れているだけなのでしょう。このことは、もしかすると、私が大人になって海外生活をしてみて、初めて実感することができた「色々違うところもあるけど、所詮、人は人」という感じ方に近いものを、彼らは特に意識もせずに、すでに自然と身に付けているということなのかもしれませんね。
 私は、息子が、みどりの丘補習校で、日本語だけでなく、こうした感覚も一緒に育んでいることを、ある意味羨ましくさえ思います。そして、これからもこの当たり前だけど、とても大事な感覚をずっと持ち続けていってくれることを願っています。