ベルリンの壁崩壊、東西両ドイツ統一のきっかけになった汎ヨーロッパピクニックは1989年8月19日の出来事。それから20年、事件を風化させないようにとの願いから、20周年の記念行事の一つとして8月19日、ヨーロッパコンサートがショプロン郊外のフェルテーラーコシュの洞窟劇場で開かれると知った。このコンサートのメインのプログラム、ベートーヴェンの交響曲九番「合唱」を歌うため日本からツアーが計画されており、一行の宿泊するショプロンホテルに宿泊し、ツアーのメンバーと同一行動を取らせてもらった。 
 以下は同じようににわかメンバーになったハンガリー在住の日本人女性(匿名)二人から寄せられた感想の一部である。
 ベルリンの壁が崩壊した1989年、私は中学生でした。そんな中学生でも歴史の時間に「ベルリンの壁崩壊」を学び、テレビで流れていた壁を壊す人々の映像が衝撃的であったことは今でも覚えています。ところが、その詳しい経緯はと聞かれると恥ずかしながらきちんと説明することができず、今回このイベントに参加するにあたって改めて勉強しなおさなければなりませんでした。
 「汎ヨーロッパピクニック事件」については全く記憶になく、歴史の授業でいったい何を勉強していたのだろうと情けなくなるほどです。そんな私が、このイベントに参加して、この事件をとても身近に感じられるようになりました。
 5年ごとに行われているという汎ヨーロッパピクニックの記念行事。オリンピックより貴重かもしれないのに、運良くこの時期にハンガリーにいて、たまたま参加する機会を与えられて私はとてもラッキーでした。
 国境ウォーキングの会場は私たちが滞在したショプロンからバスで40分ほどのフェルテーラーコシュというところにあります。現在は公園として整備され、記念のモニュメントや、実際に当時敷設されていた鉄条網の一部や監視台などが残されています。そんな歴史的な出来事があったとは思えないほど静かな草原とその先に森が広がっていました。
 私には「ベルリンの壁崩壊」は教科書の中の出来事でしかありませんでした。だから、その時代東と西に分断され家族とも自由に会うことができなかった人々の気持ちがどのようなものであったか、私には想像もつきませんでした。でも、今回そのような場所に実際行って何もない広場に立ちながら、もし私がその時の東ドイツの人だったらどんな気持ちだっただろうか考えてみました。当時亡命を試みた人々の必死さやそれを支援した人々の思いが伝わってくるようでした。それが本当に正しいかどうか知ることはできませんが、その時代その場にいなかった人が歴史的出来事に思いを寄せることで、その出来事が風化していくのを防ぐことはできるのではないでしょうか。歴史的なものを残す必要性というのはここにあるのだと思います。そんな思いを抱きながら、1時間ほどのハイキングを楽しみました。
 洞窟コンサートは19日の夜だった。各国要人が来るということで、私たちが滞在したホテルには大勢の警官、SPが配置された。このイベントの大きさを再認識した。事実、ショーヨムハンガリー大統領、メルケルドイツ首相もコンサートに出席して挨拶をした。
 満席だった。要人の姿が見える。ほぼ定刻通りコンサートは始まった。素晴らしかった。特に、第九の合唱は、本当に素晴らしく、感動だった。指揮は守山俊吾さんオーケストラはジュール交響楽団、ソリスト、合唱団は日本、ドイツ、ハンガリー人で構成され、日本からは約100人の合唱団が参加した。
 第四楽章、バリトンの三原剛さんの歌声が始まると、会場は一層緊張に包まれた。ボキャブラリーが乏しく他に言葉が見つけられないが、本当に素晴らしかった。何かこみ上げるものがあり、心に響いた。鳥肌がたった。ステージに立った合唱団の方々はさっきまで気さくに話していた人たちとは思えないほど、無茶苦茶格好良く、誇らしく思えた。合唱が終わると、会場は大きな拍手に包まれた。スタンディングオベーション。ステージから下りてきたひとりずつに、抱きつきたいくらいだった。
 興奮さめやらず、ホテルに戻り、打ち上げパーティが行われた。皆、幸せそうで、私も幸せな気分だった。このイベントの発起人である糸見偲さんのスピーチを聞くまでは。彼女は言った。
 「国境公園の桜の木が切られました」。日本からの寄付で植樹された桜の木が今回の20周年を記念して造られたモニュメント設置に邪魔だったとかで、断りもなしに切られてしまったというのだ。私は、その時その桜の木にどんな歴史があるのか知らなかったけれど、それでも胸が痛かった。なぜ?どうしてそんなことが出来るのか。ただ、悲しい気持ちになった。会場の雰囲気は一変した。通訳として参加していた若いハンガリー人女性が言った。
 「桜の木のことを聞いて、本当に驚いています。私も本当に残念です。このままではいけない。何とかしないと。」少し救われた気がした。ハンガリー人にも同じ気持ちのひとがいる。私は少し複雑な気持ちで会場、そしてショプロンを後にした。
 ハンガリーに来なければこの事件、イベントを知ることは一生なかっただろう。そして考えることもなかっただろう。始まりは、単なるミーハー心からだったが、この旅行は私にとって大きなものになった。平和と、いつかあの公園で再び桜の木を見られる日が来ることを願わずにはいられない。