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特別寄稿 エコノミストのハンガリー回想(3)
70年代のハンガリー
佐藤 経明 |
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70年代のハンガリーを一言で特徴付けるのは難しい。矛盾したいろんな要素があって、良く使われる「停滞の時代」といった一言で片付けるのには躊躇われるからだ。
スターリン批判(1956) に始まる改革期待の時代は、「プラハの春」に対する軍事介入(1968) で終りを告げた。スターリン批判の論理を素直に伸ばして行ったら「プラハの春」になる。改革に期待をかけていた人達の一部は突出して「反体制派」として登場する。「パリの熱い5月」、ドイツの大学叛乱もこの年だったし、その一部は「赤軍派」として70年代初頭をテロで彩った。それが終息した後、何か惰性的な70年代が到来した。ハンガリーの経済改革も、似たような改革コースを追求していたチェコの脱落で「孤立の影」が濃くなった。
1971年秋、前号で記したチコーシュ・ナジは、冒頭から「われわれはブレーキをかけることを余儀なくされた」と口火を切った。だが同時に、今日もなおジェントルマンとして記憶している経済企画庁ヘテーニィ副長官は、「行政的な資材配分には絶対に戻らない」と強い語調で答えた。「退却」を余儀なくされたといっても、改革の最後の「防衛線」を維持しようとしていた。
「カーダール主義」も依然、緩やかながら進化を遂げつつあった。71年秋、街を歩いていたら書店のウインドーに「プラハの春」軍事介入反対運動で党を除名されたルカーチ派の女性社会学者、マリーア・マルクスの本が目に留まった。「おや、置いてあるの」と同行のハンガリー人経済学者に聞いたら、「当たり前だ。再版はしないが、初版は売切れるまで置いておくのが『カーダール主義』だ」という。党は除名されたが、同じ程度の俸給がもらえる文化関係の職も斡旋された。彼女は後にオーストラリアの大学に移ったが、80年代の後半に帰国して今も存命のはずである。
『コルナイ・ヤーノシュ自伝』に、戦前亡命組のフリッシュ・イシュトヴァーンの「二重人格性」がしばしば出てくるが、私はその良いほうの「片面」に出会った。当時、経済研究所長のフリッシュは、私がブダペストからブカレストに向かうが同国アカデミーから受入れ確認を貰っていないことを知ると、「うむ、少しお待ちなさい」と秘書を呼び、ルーマニア世界経済研究所長宛に英文紹介状を口述タイプさせ、渡してくれた。その場で読むと、「われわれは佐藤氏をまともな経済学者と認め、これこれの処遇を与えた。貴下のところでも同じ処遇を与えることを望む」と書かれてあった。私が感動したのは言うまでもない。しかし、ブカレストの研究所では、「フリッシュからこれほどの信頼を得るとは」と驚きながらも、「党中央に問い合わせなければならない」と、待機している間に次の目的地、ソフィアに向かう日が来た。ブダペストとブカレストとの間には、これだけの「距離」があった。 |
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本誌編集長の盛田氏は、「ハンガリー動乱鎮圧の中から登場し、何の『正統性』も持たなかったカーダール政権が、時間をかけて『実体的正統性』を獲得していった」と論じている。私は「事後的正統性」という言葉を使っているが、意味していることは同じである。そういう眼で見ると「面白みのない」70年代は、カーダール政権がシコシコと「事後的正統性」を獲得して行った時期でもあったと言える。ただ、それは「内」を見れば文句は沢山あるけれども、「外」と比較したら文句は言えないという受動的なものだった。ハンガリーが70年代に東欧の「陽の当たる小島」といわれたのは、そういう「比較」からだった。
この「陽の当たる小島」に来ると、ソ連の学者たちも気が緩むらしい。ソ連の高名な経済学者、アベル・アガンベギャンが70年代半ば、ブダペストの少数非公開の会議で、ソ連経済が抱える病弊を完膚なきまでに批判したことがある。その直後にハンガリーを訪れた私は、その非公開ペーパーを貰ったので、77年に東京で開催された国際経済学協会(IEA) の大会で、アガンベギャンが行ったお仕着せの報告を安心して批判できた。
このペーパーをくれたのは、当時、経済企画庁付属研究所の所員だった、今は亡きエールリヒ・エーヴァである。彼女と知り合ったのは1971年秋。彼女にとっては三度目の夫、レーヴェス・ガーボルともども、私がその後の37年間にこの2人に負うものは言葉に尽くせないほどだ。もう一人挙げるとすれば、サミュエリ・ラースローがいる。この二組の友人のお陰で、私はその折折の国内の政治経済上の変化ばかりか、ソ連圏情勢についても見事な解説を得た。サミュエリはスターリン批判前後、モスクワ大学経済学部に在学していたから、当時のクラスメートにはシメリョフ、ペトラコーフ、ガヴリィル・ポポフなど、ペレストロイカ時代に脚光を浴びた錚々たる連中がいた。これらの人達ともモスクワで立ち入った議論が出来たのは、サミュエリのお陰である。
しかし、勿論、良いことばかりではない。70年代も後半になると、鬱屈した雰囲気が次第に強く感じられるようになった。その背景には73年のオイル・ショックをきっかけとした経済情勢の悪化があった。1974年3月、「経済改革の父」といわれたニェルシュ・レジューが党政治局員から降りたあたりが転機で、保守派の巻き返しが活発となった。チコーシュ・ナジももはや「ブレーキは過渡的」とは言わず、「経済をプッシュ・ボタンで動かせるように思っている連中がー」と剥き出しの辛辣な言葉を使うようになっていた。しかし、経済には「経済の論理」があるからこの「暗闘」も1975年末頃がピークで、降格されたニェルシュは新年を迎える頃には「われわれは勝った」と内輪で語っていたそうだ。
カーダール主義がこの時期にも後退しなかったのは、経済的に与えられるものが少なくなったことへの「代償」という側面があったと思う。それは悪いことではなかったが、より多くを望む知識人たちには鬱屈した不満が蓄積されつつあった。76年秋の一夜、エーヴァ・ガーボル夫妻から「ここ10年くらいの社会主義にどんな見通しを持っているか」と直裁に問われ、まともには答えられず、「5年、10年のタームではペシミストたらざるを得ないが、15年、20年となると、ソ連型の体制がそのまま維持できるとは思えない」と答えたことを思い出す。この「20年」が「控え目」に過ぎたことが分かるには、その後の「15年」が必要だったが、この時、エーヴァが’In essence it is the same system’ と表現し、カーダール主義もソフトな「皮」を剥いていくと党の権力独占という硬い「核」が出てくることに変りはない、という認識は共有されていた。この「核」が次第に侵食されていくのは80年代の物語である。 |