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特別寄稿  エコノミストのハンガリー回想(1)
遠い日々のこと
佐藤 経明

 
 私がブタペストを初めて訪れたのは、44年前、1965年2月のことである。当時、滞在中のモスクワを1月末に夜行列車で発ち、ワルシャワ−プラハ−ウイーンにそれぞれ数日滞在、ブダペストに着いたのは2月も中旬だった。2月なのに到着の日はこれら3都市よりも温かく、何か早春の雰囲気を感じたことも私の気持ちを和やかにしたようだった。
 
 ここで「前置き」が少し長くなるけれども、当時の日本と旧ソ連東欧諸国との交流のチャンネルの狭さに触れておかなければならない。これらの国を対象にした文部省留学も学術振興会の派遣も無かった頃のことである。それは「パイプ」といったものではなく、偶然とコネに左右される細い「線」のようなものだった。1959年に9歳でプラハに来た故・米原万里の場合は、共産党幹部だった父親の仕事で来たものだから別としても、その他も何らかのコネや「友好」ルートによるものが多かったと思う。
 
 私の場合も偶然によるところが少なくなかった。1964年9月、後から見ればフルシチョフ平和共存路線の最後の「打ち上げ花火」だったのだが、モスクワで大々的な青年学生の国際的討論集会「世界青年フォーラム」が開かれることになって、わが国でも代表団派遣用に「日ソ青年友情委員会」が作曲家の故・芥川也寸志をシャッポにして俄かに立ち上げられた。当時、日本共産党はフルシチョフ路線を批判して中ソ論争の中国側に与していたから、この委員会の実働部隊は社会党の若手や社会党に近い労組・青年学生団体が主力だった。
 
 私は60年安保の後、いわゆる「江田ヴィジョン」(1962年10月発表)で間もなく失脚に追い込まれる江田三郎ブレーンの端っこにいたためか、江田派の若手から30人余りの日本代表団のアドバイザーとして付いて行くことを依頼された。海外渡航の機会が少なかった頃のこと、私は承諾したが、渡航費用と持ち出し外貨制限枠500ドルを合わせて当時の金で30万円負担するのに直ぐ帰るのではつまらない、せめて半年ほど滞在させてもらえないか、と当時の成田知己委員長を通じてプッシュしてもらった。そうしたら「フォーラム」終了後、翌年3月まで、モスクワ大学経済学部に外国人研究員として滞在する手配がモスクワ到着時に出来ていた。予想外だったので、私は薄いスコッチ・ツイードのスプリング・コートしか持っていなかった。
 
 
 私は高層のモスクワ大学寮のZone B 14階1448号室に住むことになったが、数階下には原水爆禁止運動で国際レーニン平和賞を受けた安井郁のお嬢さんがいたし、モスクワ音楽院に声楽で留学していた小田恭子は原爆絵画で著名な赤松俊子の姪だった。事ほどそのように、何らかの「コネ」を連想させる人が多かった。これもフルシチョフの大判振る舞いで造られたルムンバ記念民族友好大学には20人位の日本人学生がいたが、これは勿論、友好団体ルートによるものだった。
 
 私はモスクワに落ち着いた後、暫くして東欧を訪れることを考え始めたが、これにはいくつか理由があった。まず旧制高校ドイツ語世代の常としてアメリカよりもヨーロッパに親近感を持っていたし、最初に書いた論文が、1948-49年を境に全面国有化が開始される前、短期間存在した一種ネップ型の混合経済である「人民民主主義経済」(中国では「新民主義経済」)を扱ったものだったということがあった。もう1つ、これが重要なのだが、1962年の東ドイツ「新経済メカニズム」を嚆矢として、ハンガリー・チェコに経済改革の胎動が見られたからだった。10月14日のフルシチョフ追放の発表後、「フルシチョフ無きフルシチョフ路線の継続」という当時の大方の見方に反して、私は「ソ連は今後、保守化に転ずる」という判断を下していたが、東欧はどう動くだろうかという関心も強かった。
 
 しかし、東欧を訪れるとしても専門家との面談を斡旋してくれる「受け皿」が無い。どうしたものかと思っていたら、11月末、西欧の社会党を含め、東西欧州の友党との機関紙提携樹立の旅の帰途、モスクワに立ち寄った江田ブレーンの筆頭格、加藤宣幸(社党機関紙局長)と同行の松下圭一(法政大学教授)に出会った。この二人が訪問して来たばかりのポーランド・チェコ・ハンガリーの、日本で言えば共同通信社に当たる通信社に電報を打ってくれたのである。出発は翌1965年1月28日だったが、出発前、チェコのCTKモスクワ特派員、インドジッヒ・スークをチャイコフスカヤ街の自宅に訪れたら、「最近の様子は知らないが、まあ、自分の眼で良く見て下さい」という言い方に何か「翳」があるので「おや」と思ったが、3年後、「プラハの春」当時、ドゥプチェク・ブレーンの1人として名前が出て来た。
 
 キエフ駅からの夜行列車は戦前からのワゴン・リーの寝台車だったから快適だった。ポーランドでは1956年のゴムルカ復帰の政変「10月の春」の熱気はとっくに失せ、保守化のサイクルに入っていたから、専門家の間には投げやりな雰囲気があった。グランド・ホテルでは秋のショパン・コンクールの下見に来ていた21歳の中村紘子と出会い、夕食をともにした。チェコは私の到着直前、1月末の党中央委員会総会で基本的なところはハンガリー型の経済改革案を決定していたが、「中央委員会は貴君らの意図をどこまで理解した上でこの改革案を採択したのか」という私の問いに、暗い表情の経済研究所(オタ・シーク所長)学術書記・チェストミール・コジュウシニークから返って来た答は「神様しか知らない」というものだった。当時の雰囲気が分かるというものである。
 
 ハンガリーは唯一、いくらか明るかった。文字通り最初に会ったハンガリー人経済学者は、資材・価格庁長官・チコーシュ・ナジ・ベーラだったが、当時バジリカ近くの庁舎で議論して午後4時を過ぎると急に立ち上がり、「女性秘書たちが帰宅を急いでじりじりしている。夜8時に君のホテルに行くから、夕食をしながら議論を続けよう」ということになった。こんな対応は、ソ連は勿論のこと、ワルシャワでもプラハでもなかったから、私のハンガリー第一印象はこの時に形づくられたのである。
(さとう・つねあき-横浜市立大学名誉教授)
 
 

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