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プラスチック膜が薄いハンガリー
BALASSI INTÉZET
田中ちひろ


 
 

 私は今ハンガリー語を身につけようと四苦八苦している。ハンガリーへの道のりは、大学2年生の冬、ハンガリー刺繍の本を新宿紀伊国屋書店の手芸コーナーで手にしたときに始まった。色使いといい、モチーフといいすべてが私の心を惹きつけて放さなかった。一目惚れというやつである。傷心の日々にあった私は、のめり込めるもの欲しさからハンガリー刺繍に白羽の矢を立てた。「これを好きになって、これに基づいて将来を決めてやる」といった心持だったろうか。こういう表現をするとなんだかな、という感じだが、出会いにおいて大切なのはタイミングである。
 美術史を専修し、とくにイスラム美術に興味が傾いていた私は、自分の好きなものを同時に研究してしまえという魂胆のもと、「ハンガリー貴族刺繍におけるオスマン文化の影響」というテーマで卒業論文を書いた。しかし、悲しい出来に終わった研究をもう少し形にしたくて、ハンガリーでの大学院進学を目論んで来た。しかし、今思うところがあり、先は五里霧中だ。大学院進学を諦めるにしてもここにはまだ居たい。ハンガリー語が少しずつ分かりかけてきたところで帰国してしまうのは惜しい。が、どういう形で滞在許可を獲得し続けるか、目下の検討事案である。
 まあ、そんなことはいずれ結論のでることである。先月、とある所へバスで行こうとした私は、降りるべき停留所が不確かになった。運転手さんに目的地を伝え、バスが目的地周辺まで行くことを確認して乗り込んだ。降りるべきバス停がおそらく近づいてくると、運転手さんはバスの中程までわざわざ席から降りてきて、周囲のお客さんに確認し始めた。すると、バス中のお客さんはみんな一緒になって話し合い、最善の答えを弾き出し、降りるバス停を教えてくれた。運転手さんから「その子に道を教えてあげてな」と声をかけられたおじいさんは。「OK、OK、そこの上まで連れていくよと」と答え、私を近くまで導いた。途中、「日が射してきたな」、「もう春ですね」なんて会話をかわしながら。なんとまあ、穏やかな、心通う瞬間だった。
 最近読んだ梨木香歩のエッセイ『不思議な羅針盤』のなかにプラスチック膜という表現があった。それは私たちが家から外に出るときに纏う保護膜のようなもので、周囲に溢れかえる情報、感情、その他諸々から私たちを守ってくれる。そしてプラスチック膜は、見知らぬ人と不意に言葉を交わすときに破れ、私たちはその膜を抜け出して人とかかわりあう。梨木香歩はこのプラスチック膜の装備を脱ぎ捨てる瞬間の心地よさに思いを馳せている。
ハンガリーの人はプラスチック膜が薄いのではないかしらん、あるいはコントロールがとても上手なのではないかしらん、はたまたもともと膜なんて無いのかも、などと私は思っている。
 メトロが突然止まり、振替輸送が始まった時にバスの行き先を確認しあう見知らぬ人同士。バスから降りるおばあさんを助けるために伸ばされる手のすばやさ。マルギットシゲットで寒空の下、待ちに待ったバスが来たときの一体感。スーパー等のレジで自然に花が咲く四方山話。こういった瞬間のなんと多いことか。ごくごく自然に始まる会話、見知らぬひと同士の心安さ。そして、そういう瞬間、見知らぬひと同士はとても楽しそうに話すのだ。私も会話に混ざって、そこにいる人全員と友達になりたい!といつも指をくわえて見ている。プラスチック膜がガチガチに固まってしまった私はそこに至るまで大変な努力を要する。
何故こんなに、とっさに心通わせられるのかしらん、一足飛びで心が近づくのかしらん、と思う。これがプラスチック膜の柔らかさ、制御のうまさなのだろう。本当に素敵な特性だと思う。すごく人間らしいとうことでもあるのだから。もちろん、その柔らかさによって傷ついたり、苦しんだりすることもあるのだろうけれど。
 そういえば、最近ハンガリーの友人から『おもひでぽろぽろ』のDVDをもらった。作中、ハンガリーの音楽が使われている。「百姓の音楽好きなんです、俺百姓だから」と新米百姓の青年が車のカセットで流す、そんなシーンだ。そのほかのスタジオジブリの作品はもう何度も飽きるほど観たにもかかわらず、『おもひでぽろぽろ』だけは今まで一度も観たことがなかった。ハンガリーの曲が流れる作品だけを今まで観ずに来て、ここハンガリーで初めて見ることになるとは、なんだか不思議な縁だなあと、と思ってしまう。
 作品は、田舎を持つことに憧れていたタエコが休暇を利用して山形へ紅花摘みの手伝いに行く夏の話だ。姉ナナコ、ヤエコとの思い出話によってよみがえった記憶をきっかけに、小学生5年生の自分も山形へ連れて行くことになる。ささいな瞬間、瞬間に小学5年生の頃をふと思い出す。おねだりして買ってもらった銀座千疋屋のパイナップルがおいしくなかったこと。ヤエコ姉からのおさがり、エナメルのハンドバッグをめぐる苦い思い出たち。最初で最後、お父さんに頬を張られた日のこと。村人1の役に全身全霊をかけて挑んだ学芸会。
 そうした思い出が呼び起こす小学5年生という年頃もまたプラスチック膜が凝り固まっていく前なのだと思う。それがために、毎日の些細なことに心が揺れて、傷付き、打ちのめさる。けれど、いや、だからこそ、毎日は鮮やかで、「雨の日と曇りの日と晴れと、どれが一番好き?」、「く、曇り」、「あ、おんなじだ!」なんて得も言われぬ素敵なやり取りが生まれ、さらにそのささやかな一致に秘められた素晴らしさを見逃すことなく、天にも昇る気持ちになれるのだろう。


(たなか・ちひろ)
 
 

Web editorial office in Donau 4 Seasons.