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追悼文ブ ダペストからのお別れ
 
     
 
 
 
追悼:コチシュ・ゾルターン
盛田 常夫
 

 ハンガリー国立フィルハーモニィ音楽監督コチシュ・ゾルターンが、2016年11月6日、逝去した。2012年の大動脈解離の手術から4年目にして、ついに命が途絶えた。10月から始まった国立フィルのアジアツアーへの参加を取りやめ、日本公演のコチシュ担当のコンサートは小林研一郎氏が指揮した。訃報は韓国から中国に入り、上海滞在中の国立フィルメンバーに伝えられた。

 若くしてピアニストとして国際的にデビューし、ヨーロッパの主要なオーケストラと共演する機会を得て、コチシュは世界的に知られるピアニストとなった。ハンガリーはコチシュの同世代に優れたピアニストを輩出しており、ラーンキ・デジュー、シフ・アンドラーシュとともに、ハンガリーの若手ピアニストの「三羽烏」と呼ばれてきた。この三人の中で、コチシュはピアノのみならず、オーケストラ指導や作曲で優れた才能を発揮し、ハンガリーの音楽家バルトークやコダーイの研究や、埋もれたオペラの再発見などで、当代の音楽家として傑出した能力を発揮してきた。
 最近ではシェーンベルグのオペラ「モーゼ」の未完の第三章を仕上げてブダペストで公演し、またシュトラウス・オペラの再発見を行い、それと並行して、ドビュッシーやバルトークのアルバム制作に勤しんできた。

 動脈乖離は大きなストレスからくる高血圧によるものだと、コチシュは自覚していた。コチシュは音楽にかんして完璧主義者である。「能力のある奏者が努力しないで、その能力を発揮できないことに怒りを覚える」という通り、コチシュは国際的に知られた音楽家を敵に回すほど批判を加え、怒鳴ることすら多かった。「天才的な能力がない奏者には、それなりの対応をして、演奏会が成功するように心がけたが、天才的な能力があるにもかかわらず、努力しない者には激しい感情をぶつけてきた」と語っている。
ハンガリーの音楽家が惜しむように、コチシュは音楽家としての天賦の才能を備えていただけでなく、その能力を百パーセント発揮する勉強や努力を惜しまなかった。自らを最大限に追い込む完全主義者だったからこそ、自分が指導するオーケストラにも最大限の努力を要求した。国立フィルの日常的な指導にあたっては、厳しい練習を課し、間違った音を出す者には容赦なく叱りつけた。そのため、精神安定剤を服用してリハーサルに臨む奏者が出るほどだった。通常のレパートリーに加え、あたらたに発掘した楽曲を積極的に手がけるために、オーケストラメンバーには厳しい練習が課されてきた。
 コチシュの指導がパワハラにならなかったのは、ひとえにその音楽家としての天才的な能力にある。今年の春の雑誌インタビューでは、「声はまだ完全にだせないが、ピアノはこれまでのように弾けるし、フランクの交響曲は1日で勉強できるほど、記憶力は確かだ」と語っている。音楽家の多くは並外れた記憶力をもっているが、しかしコチシュの記憶能力は驚異的で、若い時からピアノのレコーディングを一発で終えるほど、譜面を読む力と演奏力は天才的だった。交響曲のパルティトゥーラ(総譜)はコンピュータのように頭に入っていた。だから、個別のパートの小さな間違いでも逃すことがない。どこがどう間違っているかを具体的に指摘されるから、奏者は反論のしようがない。オーケストラの技量はこのような厳しい練習から獲得されるのは間違いない。
もっとも、オーケストラのメンバーが音楽を楽しめるかどうかはまた別の事柄である。コンサート前のゲネプロにも多くの時間を割くことで知られており、これではコンサート時に力を十二分に発揮てきないのではないかという危惧は各方面から寄せられていた。
 それほどまでに、楽曲の完璧さを求め、最後の最後の瞬間まで全力を尽くすのが、コチシュの音楽家としての生き様だった。

 2012年9月の手術から数ヶ月を経た12月のインタビューで、コチシュは9月のコンサート時に最初の自覚症状を感じたことを話している。2012年9月12日にハンガリー南部の町ペーチで開かれたバルトークのピアノ協奏曲第一番の演奏において、「第三楽章の副次的テーマの小節で楽譜にあるフォルテシモを、自分の解釈でかなり強く叩いた後に、呼吸が苦しくなった」と回顧している。時々、胸痛みを感じていたようだが、最初の深刻な自覚症状はこのときにあったようだ。「その瞬間に、動脈の二番目の層が破れた」と推測している。その夜は、ペーチで夕食を取り、自分で車を運転してブダペストに戻ったという。ブダペストに戻り、9月20日のCTで動脈乖離が見られ、即入院・手術となった。
 長時間にわたる手術を終えたコチシュは、酸素を送り込むチューブで声帯が傷ついたために、声がほとんど出せなくなった。オーケストラのメンバーはこれで怒鳴られなくて済むようになったと、冗談とも本気ともつかない気持ちを吐露していたが、コチシュ自身も生死を彷徨って、人生観に変化がみられた。これまで批判を加えてきた音楽家に和解を乞う手紙を送り、怒りを抑えるようになった。もちろん、それで完璧主義の旗を降ろしたわけではなかったが。

 コチシュは政治的な発言を行う芸術家としても知られていた。最近では、高価なサッカー場の建設に邁進するオルバン政権にたいして、「せめてスタジアム1個分の予算を、音楽学校の支援に向けて欲しいもの」とインタビューで答えている。難民問題でも自説を語り、自分の意見を率直に述べる芸術家として知られていた。
 多くの優れた音楽家を輩出してきたハンガリーにおいて、コチシュは戦後に生まれた音楽家のなかでもっとも傑出した天才的能力を発揮した音楽家であった。バルトークをもっとも良く研究し、理解していた音楽家であり、ハンガリー音楽界が失ったものは計り知れない。
 11月19日、リスト音楽院でお別れの会が開かれた。何物をも恐れず、時の政権の政策批判すら控えることもなかったコチシュだが、ハンガリーが失った才能を惜しみ、大統領、首相、大臣が一同に参列する会になった。

(もりた・つねお 「ドナウの四季」編集長)
 
 

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