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ポピュリズムと属国民族主義が蔓延する日本
盛田 常夫


ポピュリズムとは何か
 市井の人々は日々の生活を送るので精一杯だから、10年後や20年後、あるいは50年後に国がどうなるかなど考える余裕はないし、考える意味もない。ふつうの国民にとって、遠い先のことより、目先の利益が最大の関心事になるのは自然なことだ。だから、国の累積債務によって10年20年後に社会保障が大幅に削減されることより、とりあえず年金が減額されず健保の自己負担が増えないことや、派遣から正社員への登用や賃金の引上げなどははるかに切実な願いだ。国や地方自治体の債務が増えようが、とりあえず身の回りの生活条件を向上してもらうことを選ぶ。国や自治体の借金の累積が将来の社会にどのような影響を与えるかなど、考えたこともないし考える余裕もない。社会的な停滞の時代、社会が次第に老年化する時代には、保身の保守的行動様式が顕著になる。
 こういう時代にこそ、将来社会を見据え、長期的視野に立った政治が必要とされる。高度成長時代を終えた日本は、これまで経験したことのない、社会が縮小する時代に入りつつある。未知の将来社会をどうやって描いていくのか、どのような社会的整備が必要になるのか、老年化する地域社会をどのように維持していくのか、巨大なインフラの維持管理をどうするのか、原発をどうするのか、健康保険や年金制度をどう維持し変更しなければならないのか、国民はどのように社会保障費用を負担していくか、そのために税制をどう変革しなければならないのかなど、日本社会が抱える課題は非常に重い。
 こういう時代の転換期には、株式や為替の動きに一喜一憂するような目先の利益を追う政治ではなく、長期の未来を見据えた政治が必要だ。権力維持や選挙のことしか念頭にない政治ではなく、国の将来を思い、将来社会の建設に精を出そうとする賢くかつ知性にあふれた政治だけが、国の危機を救う。
 ところが、現代の政治家は、東西を問わず、将来社会の行く末を見据えて国を治めるのではなく、権力維持や権力奪取のために、目先の利益を追う人々の感情や行動に諂(へつら)い、国民の素朴な感情に依存する行動様式をとる。これが現代政治のポピュリズムである。国民感情に諂う政治という視点から見れば、右も左もそれほど大差ない。政権政党は経済成長で債務問題は解決されるという幻想を、反政権政党は大企業への課税で債務問題は解決できるかのような幻想を振りまく。どちらも根本的な問題解決にならないが、そんなことは政党にとってどうでもよい。当面の国民の支持を得られるか否かが最大の関心事なのだから。ポピュリズムの政治はいわば行き当たりばったりの政治で、将来の国家設計に責任を持たないし、持ちえない。だから、ポピュリズムの政治が蔓延する社会は、後世の世代に大きな負のレガシーを残す。
 こういう時代にこそ、国民がもっと賢くならなければならない。中央政府や地方政府から給付を受けることだけを考えるのではなく、その給付に見合った負担をどうするのかを考えなければならない。政府も地方自治体の財政も国民の税収から成り立っているのだから、将来社会に負のレガシーを残さないような社会的給付や負担のあり方を議論しなければならない。二進も三進も行かない危機的状況が顕在化してからでは手遅れだ。前広に十分に時間をとって、将来の社会や国のあり方を議論すべきだ。ポピュリズムはそういう時代の課題に解決を与えるのではなく、解決の基盤を崩してしまう。ポピュリズムが蔓延する社会に未来はない。

累積債務1000兆円は国民の債務か、それとも債権か
 アベノミクスは典型的なポピュリズムの経済政策である。この目先の利益を追う経済イデオロギーを積極的に支持する「経済学者」や「エコノミスト」の一団がいる。権力に寄り添った発言を繰り返せば、政府機関の要職を得たり、マスコミに顔を出す機会が増えたりして、講演料などの小さくない稼ぎができるからだろう。こういう俗物的な「アベノヨイショ」が精を出しているのが、公的累積債務問題を軽視できるレトリックの「発見」である。その典型的で詐欺的なレトリックは、以下の四つのパターンに集約できる。
 (1)国の債務は国民の債権だから、国民1人当たり900万円の借金という表現は間違っている。「国家債務問題は存在せず、国民債権が存在する」という債務と債権の論理のすり替え。
 (2)政府はさまざまな国家資産を保有しているから、資産と債務を相殺すれば、純債務残高は大幅に削減する。だから、「累積債務の粗額で大騒ぎすることなどない」という帳簿いじりの楽観論。財務省出身の「経済学者」、高橋洋一の持論だ。
 (3)日本の公的債務のほとんどは国民が保有しており、国外の投資家の保有率は極めて低い。だから、「日本の財政に何の心配も要らない」という論理不明瞭な議論のすり替え。これを声高に主張している三橋某という「三文評論家」が、全国を回って講演料稼ぎしている。
 そして、極めつけは、
 (4)政府の国債のかなりの部分が日銀に保有さている。政府と日銀は親会社と子会社の関係にあるから、「債務と債権は相殺されて、実質上、債務はゼロになる」という幼稚なレトリックである。これはいわば政府部門の粉飾決算をやれば、公的累積債務が消滅するというデマゴギー。テレビでも「評論家」として顔を売っている森永某がしたり顔で語る「発見」で、難しい議論が苦手な安倍首相が、「政府債務と日銀債権は連結決済されるよね」と、本気で信じようとしている論点でもある。アベノミクスによる税収増で債務が解消されないことが分かった現在、安倍晋三が頼みにするスピリチャル操作である。
 さて、上に見た4つの論点はどれも間違いである。
 (1)確かに国債という国の債務を国民が保有していれば、国民は国に対する債権を保有していることになるが、問題の本質はそこにない。国の債務は将来の税収の先取り消費の結果だから、最終的に将来の税収で補填しなければならない。だから、国民の保有する国債は最終的に国民の負債なのである。さらに、巨額に積み上がった国債は不良債権になる高い蓋然性を有している。これだけの巨額の債務を将来の経済成長によって解消できるとは誰も思っていない。だから、わざわざ浜田内閣参与がアメリカから連れてきたノーベル経済学賞受賞者シムズが主張するように、もっと財政を拡大して、インフレ率を上げて、累積債務を割引する政策が推奨される。膨大な国家債務を解消する最後の手段が、高インフレによる借金の実質的な減額か、徳政令による借金棒引きであることは、昔から良く知られた財政再建の手法である。アメリカからわざわざ招聘する必要もない無責任な議論である。この政策主張もまた、「国の債務である公債は、最終的に、国民の債務である」ことを明瞭に教えている。
 (2)高橋洋一がいろいろな理屈をつけて政府資産を増やして純債務を小さく見せても、実際に短期間のうちに資産売却が実行されなければ、この帳簿操作に何の意味もない。累積債務1000兆円が意味しているのは、「すでに国や国民が1000兆円を消費してしまった」ことだ。帳簿上の政府資産額をどのように増やしても、すでに消費された1000兆円が戻ってくるわけではない。だから、どのような帳簿操作をおこなっても、この1000兆円は将来の世代が背負わなくてはならない負のレガシーであることに何の変わりもない。もし純債務を実際に小さくしようとすれば、資産売却を進めなければならない。実際に資産が売却されて、累積債務が削減されれば、将来世代への負の遺産の継承額が小さくなる。しかし、それは債務超過の家族に、家を売って借金を返済しなさいというのと同じで、政府にとっても簡単に実行できることではない。
 (3)日本の国債のほとんどは国内消化されているから、「日本の財政破綻を心配する必要はない」はずがない。それは、高々、国際投資家の投機に晒されないというだけのことで、累積債務が最終的に国民の租税から補填されなければならないという事実が変わるわけではない。租税収入による補填が不可能であれば、インフレによる債務の実質的削減か、債務の棒引きという選択肢が残るだけである。
 (4)粉飾決済を信じたい安倍首相の心境は理解できるが、これはきわめて幼稚な思考だ。親会社の債務を子会社に移して、連結決済で親会社の債務がなくなるのなら誰も苦労はしない。藁をもすがる思いで架空の物語を信じたくなるのは、アベノミクスが破たんしていることを感じているからだろう。
 これらの「アベノヨイショ」が目をつむっている事実、つまり誰がどう言い繕っても変わらない事実は、「国と国民がすでに1000兆円を消費してしまった」ということだ。その事実を帳簿操作で減額することも、帳消しにすることもできない。これが累積債務問題の核心である。だから、アベノミクスによる目論見の破綻が明白になり焦る安倍内閣は、国民資産を投機的投資に振り向けているが、これは国民資産を棄損させ、国家の累積債務をさらに増やす可能性が高い。そうなれば、将来世代に先送りされる負担がますます大きくなる。その意味で、アベノミクスは真の問題を隠し、脆弱な政府の財政基盤を棄損し、将来社会の基盤を取り崩す政策である。
 こういうポピュリズム政策は百害あって一利なしだ。政権維持の策を練るだけの能力しかない政治家に、日本の将来を任せてはいけないのだ。もっと知性のある長期的視野に立った政策を展開できる政権が必要なのだ。ただ、野党にその力があるとは思われない。同じポピュリズムの土壌の中で政争に明け暮れているだけだからだ。
 日本のみならず、世界のほとんどの国には、国の将来を憂う、真の政治家などほんの一握りしかいない。だから、国も社会も、同じ過ちを何度も繰り返すのだ。

属国主義と民族主義の奇妙な統合
━日和見右翼

 時代が大きく変わる歴史時代には、未来の社会の青写真を描く、優れた指導者が現れる。混沌とした時代から抜け出す道筋と、抜け出した後の社会を描くことによって、人々に行動の指針を与える。日本の歴史で言えば、群雄割拠の戦国時代から封建的統一国家による支配体制を固めた徳川幕府成立や、封建国家から近代絶対主義国家を樹立した明治維新がそれにあたる。
 これにたいして、第二次世界大戦後の日本社会には時代を切り開く有能な政治家が現れていない。天皇制の絶対国家から近代民主主義国家への転換は、日本国民にとって、非常に難しい課題だった。アメリカに国家主権を奪われたことが、自らの社会を自らの力で作り上げていくという力と創造性を奪ってしまった。それでも、戦後直後の政治家のなかには、アメリカの占領を早急に終わらせ、日本が再び独立国家として国際的な認知を受けるよう試みた政治家もいたが、戦後の冷戦時代の主役になったアメリカは国際政治における日本の自立を許さなかった。日本をアメリカの世界戦略へ組み込む軍事的従属は、次第に日本の政治家を去勢することになり、国民もまた政治家と同様に、自らの頭で考えることを止め、アメリカの属国として生きることに慣れてしまった。
 日米安保条約はアメリカ占領軍の日本駐留を継続させるための枠組みに他ならない。アメリカの軍事支配から抜け出すという戦後初期の目標は早々と投げ捨てられ、アメリカのご機嫌をとることが保守政治の基本になった。「日米同盟」という聞こえの良い枕詞で、日本がアメリカの軍事主権に従属していることを隠ぺいしてきた。その結果、日本がアメリカの属国であることに違和感を喪失してしまったのが、現代日本である。
 この3月に橋下徹がワシントンまで出向いて、「トランプ政権が日本に圧力をかけて、アメリカのために日本人が血を流すことも厭わないように仕向けるべきだ」というピント外れのことを平気で講演した。まさに属国民族主義そのものである。属国主義と民族主義という二つの相容れない主義主張が、一緒になっているところに、現代日本の右派の偏頗な民族主義の特質がみられる。これはいわば「日和見民族主義」だ。
 憲法9条のおかげで、戦後最大の戦争犯罪であるアメリカのヴェトナム戦争に、日本は参戦することを免れた。後方支援で米軍の展開に協力したが、韓国のように精鋭部隊を派遣し、アメリカ軍に勝るとも劣らない残虐なヴェトナム人殺戮をおこない、村から都市へ流れて売春婦にならざるをえなかったヴェトナム婦人を集めて慰安所を作るような真似をしなくて済んだ。橋本徹はアメリカが絶対正義の象徴であるかのように考えているが、それが思考を誤らせる躓きの石だ。 属国民族主義からの脱却は、日本人が長らく忘れ去っている真の民族としての自立の課題なのだ。
 
 

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