驚異的な復活
テニス界の史上最高選手といわれるフェデラーが、昨シーズン途中で膝の治療のために長期休養に入った時点で、ほとんどのテニスファンはフェデラーの引退を想定した。年齢も35歳に達し、ここ数年のパフォーマンスは下降の一途を辿っていたから、長期のトーナメント離脱は選手生命にとって致命的なレベル低下をもたらすだろうと考えた人は多い。だから、復帰後の今年の全豪オープン5回戦で、錦織.フェデラー戦が実現した時には錦織の楽勝で世代交代かと思われたが、その予想は外れ、フェデラーは錦織撃破の余勢を駆って、全豪タイトルまで取ってしまった。
続く、ATP1000(グランドスラム4大会に次ぐ、優勝ポイント1000の大会で、年間9大会開催)Indian Wells(カリフォルニア)でも優勝し、4月3日に決勝を迎えたATP1000大会のMiami Openでもナダルを破って優勝した。
この3ヶ月間でフェデラー選手が荒稼ぎしたATPポイントは4000ポイントである。これは錦織選手が1年かけて獲得したポイント数に匹敵する。
Indian Wellsでフェデラーが優勝した3月19日、スキージャンプW杯ノルウェイのジャンピング大会(HS225m)で、44歳の葛西選手が見事2位に入賞した。年齢で一回りも二回りも違う並み居る若手のホープを押しのけた結果に、大会に参加した各国選手も役員も喝采を送っていた。選手でも恐怖心があるというヒルサイズ(HS)225mのジャンピング台で、44歳になっても240mを超える大ジャンプを披露できる葛西選手は、歴史に残るレジェンドである。
どんな競技であれ、スポーツ選手の選手生命が長くなるのは良いことだ。往年の名選手が、新進気鋭の選手と対等に戦う姿に感動を覚える。しかし、その復活劇や選手生命維持の背後には、凡人には想像もできない厳しいトレーニングが隠されている。それにしても、間もなく36歳にもなろうとするフェデラー選手が、引退の危機を乗り越え、最高のパフォーマンスを披露しているのはなぜだろうか
レベルアップしたフェデラー
フェデラーの選手生命を支えているのは、制球力のある速いサーヴィスを武器にした、速いゲーム展開にある。210km/hや220km/hの高速サーヴィスを打つ選手が多い中、フェデラーの平均球速190km/hはとくに速いわけではない。しかし、これは野球の投手と同じで、コーナーを突く制球力があれば、超高速のサーヴィスは不要なのだ。フェデラーの球速は、投手との比較で言えば、140km後半の球速に相当する。制球に優れているから、エースにならなくても、相手の返球が甘くなり、それを叩いて比較的楽にポイントがとれる。フェデラーのゲームは長いラリーになることが少なく、勝っても負けても、試合時間が短いのが特徴だ。厳しいトーナメントが続く男子テニスの世界で、試合時間が短いことは体の負担が小さいことを意味する。このプレースタイルが、怪我を最小限にし、長い選手生命を保っている秘訣なのだ。
ただ、今年の復活劇を支えている最大の要因は、サーヴィス力というより、バックハンドストロークのレベルアップにある。フェデラーの最大の弱点は片手のバックハンドにある。ナダルは強烈なスピン(順回転)をかけた重くて高く跳ねるボールを、フェデラーのバックサイドに集中することで、ストローク戦で常に優位に立ってきた。フェデラーにとって、バックサイドを集中的に攻められるのが泣き所だった。その結果、ナダルとの対戦成績はダブルスコアほどに開いている。ちなみに、ナダルのスピン(回転)数は、毎分4500回転前後である。1秒間の回転数は70.80回転で、ふつうの選手より2割ほど回転数が多い。
ところが、今年の全豪決勝の対ナダル戦で見せたように、フェデラーはバックハンドからノータッチエースとなるストロークを何本も放ち、ナダルのバックハンド攻めを切り返した。明らかに、休養期間中のトレーニングがこの弱点の克服にあったことを教えている。35歳になってもそれを成し遂げるところに、フェデラーの凄さがある。引退間際の歳になっても、日々精進ということだ。これで今年に入って、苦手にしてきた対ナダル戦は3連勝である。
もう一つ見逃せないのは、フットワークである。フェデラーはもともと足が速い。しかし、何時の時点からか、細かなフットワークやボールを最後まで追うことをサボるようになった。長期にわたって頂点に立つ選手は、次第に、体力を消耗させずに試合を終わらせたいという気持ちが強くなる(省エネ症候群)。そこから、手を抜いたフットワークやプレーに陥りやすい。手抜きが日常化すると、プレーのレベルが下がる。ところが、長期の休養から復帰した今年のフェデラーは、生まれ変わったように、こまめなフットワークを欠かさず、球際まで追いかける攻撃的な姿勢を見せている。それが全盛期のような安定したショットを生み出している。
まるでサイボーグのように球を打ち返し、ここ数年間、無敵状態になっていたジョコヴィッチ選手もまた、今年に入って、この「省エネ症候群」に陥るようになった。日頃のトレーニングでも、フットワークをサボると、試合でもおろそかになり、全力でぶつかってくる相手を交わすことができなくなる。ジョコヴィッチ選手の最近の連続敗戦の原因もまた、頂点に立つ選手が陥る「省エネ症候群」にある。ジョコヴィッチのコーチを離れたボリス・ベッカーは、ジョコヴィッチ選手の手抜きトレーニングに言及している。
ランキングが上位の選手は、大きな大会では、決勝まで6.7試合をこなさなければならない。だから、最初の試合から全力で戦うことはせず、試合を重ねるなかで、ギアを切り替えていく。力をセーヴしながら、勝負所でギアをチェンジすることができるのが、トップ選手の強みなのである。しかし、相手選手はスタミナを気にすることなく、番狂わせを狙って、全力で向かってくる。しかも、相手選手の調子が非常に良いと、手抜きする上位選手はかなり苦戦を強いられる。大会の早い段階で上位シードが敗れるケースがこれである。上位選手にとって、緒戦の1.2戦は鬼門なのである。
錦織選手の不振の原因
フェデラー選手のレベルアップした要因が、まさに逆方向に働いているのが、今年の錦織選手である。それもこれも、錦織が「省エネ症候群」に陥ってしまったからだ。
錦織選手のサーヴィス力は女子のトップ選手並みで、肝心なところでサーヴィスゲームをキープできない。それが試合時間を長引かせ、体力を消耗させる。MiamiOpenの対ヴェルダスコ戦で、2セットとも早い段階で相手のサーヴィスをブレークし、自らのサーヴィスゲームでセットを締めるチャンスを得た。しかし、2セットとも自らのサーヴィスゲームを落とし、試合がもつれた。試合には勝ったが、2時間未満で終えられるはずの試合が、1時間以上も長くなり、3時間近い時間を要した。ただでさえ体の強さに問題がある錦織選手だ。弱いサーヴィスが試合時間を長引かせ、体を痛めるという悪循環に陥っている。フェデラーと正反対のプレースタイルである。サーヴィス力を上げない限り、グランドスラムはもとより、ATP1000のタイトルを取るのも難しいだろう。
さらに、ここに来て目立つのは、プレーの粗さである。サーヴィスを打った後、最適なボールの落下点へ足を運ぶフットワークがおろそかになっている。サーヴィスを打った場所から足をまったく動かさず、細かなステップなしで返球することが多い。こうなると、ボールのコントロールを失い、ミスするケースが目立つ。フットワークが悪いと、錦織の武器である深い返球が影を潜め、浅く返ったボールをことごとく相手にヒットされ、ストローク戦で劣勢に立たされる。 願ってもないくじ運に恵まれたIndianWellsの準々決勝対ソック戦、優位に立たなくてはならないストローク戦でこの悪い癖が出て、完全に力負けした。Miamiでは長い試合が2試合続いた結果、手首を痛め、準々決勝はフォニーニ選手に完敗した。 今年の錦織選手を見ていると、なるべく楽に試合を終えたいというプレーが、見え見えになっている。錦織本来の攻めのプレーが陰を潜め、受け身の消極的なプレースタイルが目立つ。アグレッシブでない錦織はまったく相手選手の脅威ではない。サーヴィス力がなく、ストローク戦で粘れない並みの選手になってしまっては、トーナメントで勝ち進むことができない。錦織選手が「省エネ症候群」に陥るのは早すぎる。グランドスラム大会はもちろん、ATP1000のタイトルもとっていない現状で、受け身のスタイルに陥るのは理解できない。最大の武器である攻めのスタイルを貫くために、サーヴィス力とフットワークの強化を怠ってはならない。フェデラーのように、初心に戻ってハードワークする姿勢が必要だ。錦織選手の奮起を促したい。 全員が30歳代に入るBig Four(フェデラー、ジョコヴィッチ、マリー、ナダル)がまだまだ力をあるところを見せているなか、次世代の若い選手たちが、錦織選手のすぐ背後に迫っている。狭間の世代にある錦織選手がトップを狙える時間はあまり残されていない。 |