先ず、両映画でテーマとされている最も重大な社会問題は、健全な個人と家族の構造と、その障害となっている父親・母親不在です。『千と千尋の神隠し』について言えば、主人公、千尋は親を取られてしまっているし、巨大な赤ん坊の姿をしている坊には母親の湯婆婆しかいないし、その湯婆婆も千尋の大人げない両親と同様に、あまり子供の成長に関わっていません(湯婆婆は商売に夢中で自分の息子に気づかないシーンが3回もあるし、同じく、坊にも湯婆婆とその双子の妹の区別がつきませんでした)。同様に、『ハウルの動く城』のソフィーとハウルも、両親不在です。しかも、ハウルだって、ハウルとマルクルとソフィーで構成されている自分の第二の家族においては、よく家を空ける父親に過ぎないとも考えられます。例えば、マルクルが「久しぶりだね〜、ちゃんとした朝ごはんって」と叫んで燥いでいる朝食のシーンは、ハウルが戦争や仕事のせいで朝帰りするのは珍しくないことを強調しています。
それでは、これらの映画における父親・母親不在対策は何なのでしょうか。
『千と千尋の神隠し』の場合、子供は健全なロールモデルがいないまま成長していくしかないという結論に至ります。一方、『ハウルの動く城』の解決方法はハウルの父親としての進化と、家族の新しい母親役になるソフィーによる家庭作り活動です。つまり、自分たち自身が親というロールモデルになろうとしています。しかし、父としてのハウルと同様に、母としてのソフィーの中でも子供と親と老人の特徴が混ざっています。そして、この役割を全部同時に受け入れる可能性もあります。若い体に白髮を持ったソフィーの最終的な姿がまさに、その進行と退行との永久交替の可能性の象徴です。
もう一つの共通の社会問題は、父親の不在が子供の中にある母親に対する「甘えたい」という気持ちや母親の中にある「甘えさせたい」という気持ちを増幅させてしまい、子供が母親に甘え過ぎているという状態です。ハウルとソフィーばあさんとの関係も、湯婆婆と坊との関係も、甘えを非常に利用する親子関係です。特に坊の場合、母親の「一人息子に子供のままでいてほしい」という気持ちに応じて、完全に部屋の中で引き込もった状態です。ですが、ストーリーの作者は母親の目を盗むことのできる鼠へのメタモフォシス(変態)によって、坊にも成長の機会を与えてあげます。従って、境界性は必ずしも不自然で災難だと決まっている訳ではなく、人の成長の一段階であるということではないでしょうか。
しかしながら、二つの作品の間には、世界観と人間観に関して根本的な違いがあります。新しく転校することになっている学校に向かって舌を出すような生意気な千尋は、労働と接客と恋を味わって、お世話になった教育係りのリンに認められてからこそ、初めて礼儀正しい娘、そして両親の救済者として立ち上がることが出来ます。更に、全く変わろうとしない千尋の両親を除いて、2001年に制作された『千と千尋の神隠し』の登場人物はみんな前だけに進んで成長しようとしています。つまり、境界に触れる事が人の成長の為であれなんであれ、その境界性とは必ず一時的な状態だということです。そして、境界性は湯婆婆が管理する神や妖怪の為の温泉と同様に、まるで「異世界」での体験で、「人生の寄り道」にしか過ぎないということです。結果としては、主人公がその異世界から離れなければならなくなり、そこで得た知識だけを持ち帰ることとなります。言い換えれば、人生とは「一方通行」、片道だけの過程で、いつも変化イコール進行だということでしょう。
一方で、わずか3年後に制作された『ハウルの動く城』は前述の現実離れしているとも言える人間進化論に反対し、人の成長を一方通行でポジティブな過程ではなく、永遠に続く自分自身と他人との間のアイデンティティの交渉として描きます。これを通して、境界破りだけでなく、永久状態としての境界性も自然なこととなります。すなわち、人生とは進行だけの一方通行ではないということです。人の成長とは進行も退行も含め、「道」そのものだということです。
ソフィーとハウルが最初に出会った時、若いソフィーはハウルの魔法に助けられるばかりで、自分で自分を守ることも出来ませんでした。まるで子供であるかのように見えました。それに比べて、ハウルは乙女を助ける金髪の王子様に見えました。また、城の中で会った時も、体がおばあさんになったソフィーより城の主人として指揮をとったハウルの方が大人という感じがします。しかし、その後、ソフィーばあさんは積極的になり、大掃除や洗濯をし、マルクルのおばあさん代わりとなります。その後、ハウルは髪色が金髪から黒に戻っただけで大騒ぎをしたり、闇の聖霊を呼んだりしたため、王子様のイメージが崩れていき、このシーンのハウルは本当に思春期の少年みたいです。本当に一瞬でしたが、ソフィーばあさんもハウルの癇癪に絶望し、家を出て子供の様に大声で泣き出したことがあります。更に次のシーンのハウルは、お子様用の部屋でベッドの上で拗ねています。しかも、ソフィーを母親ということにして自分の代わりにハウルの師匠の元に戦争の件を断りに行ってくれるよう説得しました。ソフィーだって、従ってしまった時点で母親役を受け入れてしまったことになります。これで、二人の役割は一時的に逆になりました。ただし、間も無くハウルはソフィーに甘え過ぎたことに気がつき、ソフィーを追いかけました。しばらく、ソフィーとハウルは対等の大人になりました。この二人だけではなく、マルクルも荒地の魔女も同様に子供と大人と老人との間の存在と言えます。
これを通して、最終的に魔女がおばあさんの、ソフィーが母親の、ハウルが父親の、そしてマルクルが息子の役割を受け入れました。とは言え、これからはもう誰も変わらない、つまり、大人はもう子供になったり大人に戻ったりしないとは限りません。つまり、この映画には、「人は完璧ではない、完璧にはなれない、そして完璧になれなくても大丈夫だ」という、『千と千尋の神隠し』よりも優しく響く、人を思う気持ちが含まれているとも考察出来ます。
日本のアニメーションにおける「境界の存在」について論じました。以上のことから、象徴としての「境界の存在」には数え切れないほどたくさんの種類と意味があり、「境界破り・境界性」とは想像以上に普通のことで、少なくとも一時的には全ての人々に当てはまる状況だという結論に至りました。
最後に、境界性のもう一つの意味を述べましょう。文化と文化、民族性と民族性の間に生きている人は「ハーフ」とよばれています。アニメで例えれば、『進撃の巨人』(荒木 哲郎監督、2013年)のミカサ・アッカーマンや、象徴的な意味で、『犬夜叉』シリーズの半分人間半分妖怪である主人公の犬夜叉や、『ハウルの動く城』のハウルなどのキャラクターがハーフの代表だと考えられます。例えば、ハウルが生まれ付きの黒髮を青い瞳に合わせて金髪に脱色したのは、二つの文化・民族の中でどちらか一つだけを選び、その一つだけに属したかったからだと論じることも出来ます。そう考えれば、ハウルは自分自身にも家族にも認められて初めて青い瞳と黒髮、つまり、二つ以上のカテゴリ・文化・民族を同時に持つことが出来たとも言えます。それによって、「境界」が「両方」に、「ハーフ」が「ダブル」になるのではないでしょうか。このように、スタジオ・ジブリの作品は「本当の自分のままで生きることが出来る以上、永久に『境界の存在』のままでも良いではないか」という励ましのメッセージを届けてくれるように思います。 |