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境界から見た風景 (1)
Puszta Beáta


   みなさんは「今の私って、誰なのだろうか?昨日の私とは違うのだろうか?」、「今、何処に立っているのだろうか?これから何処へいくのだろうか?」、「今のままで良いのだろうか?」などの疑問を自分に尋ねたい気分になったことがおありでしょうか。さらに、その質問にはっきりと答えられなかったことはおありでしょうか。そんな時、あなたはいわゆる「境界の存在」だったのかもしれません。
 日本のアニメーションにおける「境界の存在」について考察したいと思います。先ず、「境界の存在」の意味、次に世界の映画と日本のアニメーションにおける「境界の存在」の分類、最後に宮崎 駿監督が制作した、『千尋と千の神隠し(2001年)』と『ハウルの動く城(2004年)』の映画の比較による分析を通して、その境界の存在が示している現実の社会問題について述べます。
 さて、「境界の存在」とは一体何のことでしょうか?
 先ず、先行研究をまとめてみましょう。
 メアリー・ダグラスの名作、『汚穢と禁忌』(1963年)によると、此の世の中、及び人間が感じ取る世界は全て、複数の純粋ではっきりとした文化的なカテゴリによって成立しているそうです。そして、カテゴリとカテゴリの間に引かれた境界を越えようとする行為が禁じられています。
 しかし、そんなに厳密な構造はこの矛盾だらけで複雑な世の中ではありえないはずです。そこで、ダグラスは、境界への接触が可能だと認める上、その境界に接触している状態は、如何に「汚れた」状態であろうとも、人生の中で自然な状態であって、一時的なことに過ぎないとも論じています。この状態を「トランスグレッション」というそうです。
 ノエル・キャロルは『ホラーの哲学』(1990年)という書籍で、ダグラスの議論をもとに、「汚れた人または物とは、カテゴリとカテゴリの間に存在している人または物か、二つ以上の矛盾しているカテゴリに同時に存在している人または物か、もしくは、不完全か無定形の人または物のことだ」という定義を定めました。

つまり、人や物が抱えているその汚れがもし簡単に清められない状態だったとしたら、その人や物こそが「境界の存在」であるのでしょう。
 そういった汚れを清める為に、昔から様々な社会的・宗教的な儀式が行われています。何故なら、汚れを清めることを通して無事に一つのカテゴリから次のカテゴリに移動出来ることが、個人の為にも社会の為にも非常に大切だからだそうです。日本で言うなら、例えば、宮参りという慣習では、赤ん坊をあの世から切り離して出産の汚れを清めたり、成人式では若者に大人の意識を与えたりすることによって、カテゴリとカテゴリの間に昔から引かれている境界が強化されます。

 次に、境界のキャラクターを分類してみましょう。実は、こういったキャラクターは現在世界中のホラー・ファンタジー・SFなどで大人気のモチーフで、実写映画・漫画・アニメーションなどによく登場します。例えば、『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督、1982年)や『ロボコップ』(ポール・バーホーベン監督、1987年)や『アンドリューNDR114』(クリス・コロンバス監督、1999年)など、「魂を持つロボット」を主人公とする世界の実写映画が有名ですが、とくに、日本のアニメーションの世界には境界のキャラクターが大勢見られます。
 例えば、次のようなキャラクターが境界にいると考えられます。
(1)人間と動物・怪物の間:『おおかみこどもの雨と雪』(細田 守監督、2012年)に出てくる狼人間の姉弟
(2)人間と植物の間:『パプリカ』(今 敏監督、2006年)に出てくる悪者の1人
(3)人間と機械・人形の間:日本最初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』(手塚 治虫監督、1963年)や、カルト映画『攻殻機動隊』(押井 守監督、1995年)や、『ベクシル 2077日本鎖国』(曽利 文彦監督、2007年)の主人公
(4)人間と妖怪・神の間:『犬夜叉』(池田 成監督、2000~2004年)の三角関係の恋人達
(5)此の世とあの世の間:『シャーマンキング』(水島 精二監督、2001~2002年)の様々なシャーマン達
(6)現実と幻想の間:『パプリカ』の主人公や『となりのトトロ』(宮崎 駿監督、1988年)の可愛い怪物達や、『劇場版ハートの国のアリス~Wonderful Wonder World~』(大庭 秀昭監督、2011年)の全キャスト
(7)現代と過去の間:『犬夜叉』の三角関係
(8)男と女の間:ほとんどの妖怪と神様や、『夏目友人帳』(大森 貴弘監督、2008年)』の夏目貴志とレイコ
(9)子供と大人の間:『おもひでぽろぽろ』(高畑 勲監督、1991年)』の主人公や、『劇場版ハートの国のアリス』のアリスと乱暴な双子
(10)「エゴ(私)」と「アルター(他)」・分身・ドッペルゲンガーの間: 『ちょびっツ(浅香 守生監督、2002年)』の双子のちぃとフレイヤや、『パプリカ』の千葉 敦子とその分身、パプリカとの関係など
このように、境界の存在を並べ上げてみると、リストから四つの興味深い点が現れました。第一に、境界の存在には色々な種類があるということです。第二に、境界のキャラクターは必ずしもファンタジーの登場人物ではないということです。第三に、境界の存在は必ずしも危険なモンスターではないということです。第四に、境界の存在の多くは、何らかの社会問題に関する不安を表現しているということです。
さて、以上の点から、次稿では、宮崎 駿が監督した二つの名作、『千尋と千の神隠し(2001年)』と『ハウルの動く城(2004年)』を比べて分析してみます。


(プスタ・ベアータ)
 
 

Web editorial office in Donau 4 Seasons.