女性の参加
利休時代から明治維新ごろまでの封建社会において、女性が茶道に参加する機会は非常に限られていました。茶道は、ほぼ男性のみが関わってきたものなのです。明治時代になり、文明開化がはじまると、西欧文化の導入を活発化させる動きが起こり、日本文化に対する相対的な社会的役割が下がっていきました。この風潮に伴って、茶道においては、男性の弟子の数が減ったと言われています。
一方、女学校において、はじめて正式に作法の授業に茶道が導入されました。家庭でのもてなし役として「茶道は女性にとって作法」として受け入れられたのです。「お茶を稽古した人は、第一に自分の座るべき位置を知っている。・・此の心得のない人は、・・座敷の入り口に座りこんで、・・少しのことにも転げるような恰好する。・・一寸した道具の扱い方、手つきから、茶の心得の有無は判るのである。」とは、茶道授業の導入に踏み切った当時の跡見学園、跡見花渓のことばです。
財界の数寄者
日清・日露戦争での勝利を経てナショナリズムが高まると、自国文化への回帰が進み、茶会の様々の道具を芸術作品とみなした著名な財界の男性の数寄者も茶道を盛り上げるようになりました。
男性茶人の求める精神性と芸術性
大正・昭和時代、男性の茶人の中には、茶道が禅宗と深くかかわっているという精神性と芸術性を併せ持った魅力にひかれて、根強く茶道を続ける層がありました。特に、茶室の軸は茶室の第一に重要な道具で、茶会のテーマを提示するものです。禅語が掲げられることが多いのですが、禅宗における修行僧の課題、公案に対するものに共通すると言われます。
また、茶道では俗世間から遠く離れた山の中の侘びた庵を茶室に見立てています。静かな空間で、ただ一服の茶を亭主と客が、思いやりと感謝をともにして喫するだけ、のことです。そのひとときには、細やかな精一杯の亭主のおもてなしが詰まっています。その心配りは、茶室に至る道である露地と呼ばれる入口から、すでに始まっています。
ここでは、説明を書ききれないので省略しますが、茶道では、茶一服のひとときを一生に一度の掛けがえのない時間として亭主と客が大切に共有して楽しむということです。
いくつもの時代を乗り越えてきた茶道は、精神的な心の友としての役割をもち、日常の身近なものとして日本人の間で受けつがれてきました。
現在女性が茶道を始める動機
旧社会では女性の職場は限られていました。多くの女性が積極的に茶道を習いだしたことと、女学校で茶道教授の免許が与えられるようになったことは深い関係があるようです。この結果、教授者として女性が茶道の分野を占有していくことになったのです。より多くの女性は積極的に稽古に励み、茶道教授者になり、弟子の数は、20世紀半ばには、男性を上回るようになったと言われます。
第二次世界大戦後になると、茶道点前は女性にとって作法という考え方が大流行するようになりました。「訪問先での玄関や応接間での、ふと感じる静かなたたずまいと上品なみだしなみ、そして(その方の)優雅な立ち振る舞い。これは決まって家の主婦の、茶の湯の素養の片鱗がのぞいている」と裏千家家元の身内である塩月弥生子さんは述べています。素敵な女性になるために、クラブ活動や個人教授宅での茶道稽古に、現代の多くの女性が向かい、稽古に励むようになりました。近代、特に、結婚前の女性にとって、素養として、代表的な習い事の一つになっている事実があります。
社会の中の茶道
日本は少子高齢社会になっておりますので、趣味を継続する高齢者の人数も増える傾向にあります。日本の文化の良さが再認識される社会が、今後、続いていくと思われます。茶道の点前を観察すれば分かりますが、その動線は極められたように、まったく無駄な動きがなく、合理的に集約されています。
迎える客に配慮して動作をし、清潔感と安心感を与えることもおもてなしの心です。また、客側も、亭主のこころくばりに最大限にこたえ、行動することが求められます。今、ここ、にしかない時間を、一期一会の雰囲気作りに誠意をもって、お互いが協力して座を盛り上げること、つまり一座建立の気持ちが大事といわれています。
これまでみてきましたように、日本の茶道愛好者の目的は、禅的な精神性に心と襟を正そうとする人々、日頃の煩雑さから抜け出して別世界に身をおいて静けさと一服の茶を楽しむ人々、奥深い日本芸術性を探求し追及する人々、無駄のない合理的動きや品性ある振る舞いを身につけ、それを日常に生かそうとする人々と、多様です。
茶道を続ける人々は、周囲の世界を巻き込みながら、今後の日本社会や家庭で、また世界の茶人たちと和を広げて、ますます輝き続けるであろうと予想し、期待しております。 |