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漢字勉強の魅力と面白さ
Stéger Ákos


 およそ10年前のこと、私はある言葉の響きに魅了されてしまった。その言葉は日本語だった。なぜなら、小さな表現まで人間関係がありありと表れるところや、心配りを忍ばせる微妙なニュアンスの多さに感動を覚えたからだ。
 日本語学習者の誰もが実感すると思うのだが、いくつもの層からできている日本語は、どんどん新しい発見を提供してくれる。「日本語が分かった!」と歓声を上げた瞬間に新しい秘密の壷が開いてしまい、やはり何も分かっていないと実感させる。その中でも漢字よりふさわしい例はなかろう。
 漢字を初歩レベルでかじってみるだけでは、面倒に感じられて挫折することが多い。が、少し没頭して学べば、より深く、より複雑な知識に辿り着くことができる。漢字には、複数の読み方、字形の変化を語る字源、中国語の文法を反映した熟語など、複雑で興味深い面が多く、日本語の中に存在するもう一つの言語と言っても過言ではないだろう。また、漢字は非常に便利だ。小説などの文章をスラスラ読ませてくれる手段であり(なぜなら一字一字読む必要がなく、 前後を一見しただけですぐ文脈が捉えられるから)スペースの節約にも役立つ。
 ハンガリーに在住の皆さんがご存じのように、ハンガリー語の注意書きを見れば「Kérem, ügyeljenek a fel- és leszállásnál」などと書いてあるところが、日本語で表記すると「足元注意」というように、何とも単純で分かりやすくなる。
 「漢字は必要以上に難しいから廃止しよう」というような議論は歴史上よくあったようだが、本当にそうだろうか。漢字はややこしいと言えばややこしいし、数が多いことについては議論の余地がない事実だ。しかし「多い」と「難しい」は大分意味が違うし、多いからといって難しいわけではない。
 なので、日本語を教えて4年目になる私は、漢字教育に特に重点を置いている。生徒に漢字を教える時に大事になってくるのはまず、漢字の難しさを強調しないことだ。その理由は明らかだろうが、最初から唐宋音・呉音・漢音や繁体字、康熙字典の214部首について説明し学習者の頭を混乱させたら、そこでおしまいである。生徒は衝撃を受けて逃げ出し、次回から不登校になってしまうのではないだろうか。
 西洋人にとって親近感のないこの文字は、勉強し始める時は意味もない線や点、 四角などを無理に重ね上げた一まとまりにしか見えないだろうが、実はそうではない。私がハンガリー人生徒に必ず伝えたいのは、個々の漢字には語らいがあり、短編小説並みの粗筋を描いたものだということだ。部首というのはその主人公であって、その組み立て法によって話の内容が変わる。この内容にどういう意味を持たせるかは学習者へのお任せだ。
個人の想像から漢字の字形を説明する方法は昔から行われてきた。例えば、白川静先生や、Remembering the kanjiを記したジェームズ・ハイジック氏の例である。これらはしばしば懐疑的に見られてきた。つまり、「アカデミックではない」、「実際の字源とは関係がない」などの声があった。しかし私が思うに、個人的な漢字の解釈のし方は駆逐するのではなく促進すべきだ。そうすることによって文化圏問わず、不思議なこの文字に親しみ馴染むことができるようになるのではないか。 
 自分の生徒たちにはできるだけ想像力を自由に使って漢字の中身を捉えるように促している。例えば私の授業では「鬱」などの漢字がよくネタになる。部首の意味を説明した上で生徒に、なぜこの字が「うつ」を意味すると思うかと質問する。すると、次々と立派なアイデアが出てくるのだ。例えば、缶の部分は「オズの魔法使い」という映画の登場人物であるブリキ男。彼は森に迷っており(二本の木にはさまれていることから)、しかも地図も破れている(ヒの上の部分は「図」に似ていることから)、それによる途轍もない寂しさが「鬱」だ、という声が上がる。そこへ、いやいや、缶はブルドーザーで、森が破戒されるのを眺めている動物達(彡)の餌(ヒ)がなくなるのが「鬱」だよ、と別の反応が相次ぐ。こういった反応は日本語教師として、涙が出るほどの幸せを与えてくれる。
 私の教え子には、しん繞「辶」を踏み潰されたトカゲ、「立」を「帽子を被った人」というようにあだ名を付ける者がいる。「喜」の字について、十の豆を口に入れることから、食糧が豊富にあり暮らしが充実しているのを喜ぶ、と捉えた生徒もいる。それらは決して勉強不足の証(あかし)ではない。真逆だ。漢字の作り上げた脚本を読めるようになってきているし証なのだ。もともと漢字は、発生したときには学問的に捉えられたものではなく、ただ人間が自分の見た世界、周囲にある現象を解釈するのに使った手段であった。そこから溢れ出る人間味こそが私には漢字の魅力に思われる。
 生徒には常に言うが、日本人でも中国人でも生まれた頃から漢字が分かるわけではない。彼らもたくさん苦労をして、何年もかけて学習してきたわけだ。文化的背景や教育制度はもちろん随分違うが、漢字圏の国に住んでいても、学習の苦労は西洋人のそれとそう変わらないだろう。日本の小学校では「親」の漢字を教わる時に、木の上に立って子供を見守るのは親だよ、という教え方がよく使われているそうだ。これは文化圏や母語を超えた、興味深い現象だと思う。
 
 
生徒が考案した創作漢字
 
 
「最低賃金」を1語で表記。「金」の下部を「小」に変えたもの。
 

 授業で生徒に新しい漢字を作らせることがある。「今からハンガリー語で言う概念を、勉強してきた部首を使って、漢字に直してください」という課題を出すのである。日本でここ数年、毎年行われている創作漢字コンテスト(産経Square)を思い浮かべて頂ければいいと思う。「ソーシャルメディア」、「最低賃金」、「異文化体験」などの概念を挙げると、素晴らしいアイデアが溢れ出てくる。私はそれを見ていると、漢字を作った古代人と私たち西洋人のやり方がどれほど共通しているかを感じ、鳥肌が立つ。それこそ漢字の魅力でなければ何だろうか。
 漢字は古代人の知識を語りながら現代でも実用的に使うことができる、非常にありがたいものだ。こんな豊かな文字を持つ漢字圏の人たちを羨ましく思うことさえある。読者の皆様は、漢字のことをどう思っていらっしゃるだろう。

(シュティーゲル・アーコシュ )
 
 

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