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言文一致運動と二葉亭四迷
Ficzere Kitti


 私は今、エルテ大学の日本学科修士課程で「言文一致運動」という言語改革運動と、推進者の1人である二葉亭四迷について研究しています。
 まず、言文一致とは何でしょうか。皆さまもご存知の通り、「言」は話し言葉を、「文」は書き言葉を示しています。つまり、「言文一致」とは、この二つが一致して、語法上、日常で使われる話し言葉に近い形で文章が書かれることです。また、そのようでなければならないとする考え方、およびその運動を「言文一致運動」といいます。言文一致を実現するためには、書き言葉で使われる語彙や文法を話し言葉と一致させなければなりません。
 言文一致運動に至るまでの歴史をかんたんにまとめると、平安時代には、話し言葉と書き言葉の違いはほとんどありませんでした。しかし、鎌倉時代に入ると、両者の隔たりは大きくなっていきます。そして、鎌倉時代から江戸時代の末にかけて、話すときに使用される言葉と書くときに使用される言葉はどんどん別のものになっていきました。
 日本人が言文一致の必要性に気づいたきっかけは、1867年の明治維新に始まる西洋文明との出会いでした。言文一致の実践者と言えば、福沢諭吉や、前島密や、尾崎紅葉や、山田美妙や、二葉亭四迷などを思い出す方が多いかもしれません。これらすべての啓蒙家が目標にしたのは、できるだけやさしい言葉を使いながら、読みやすくて、頭に入りやすい文章を書くことでした。
 しかし、言文一致運動は1890年代に、二回も暗礁に乗り上げることになります。一つの理由として考えられるのは、日本語の場合、話すのと同じように書こうとすると、必ず人間関係・上下関係が問題になることです。とりわけ、文末表現をどの言葉にするかによって、地の文中の言葉まで制約されてきます。ここから、言文一致運動において文末表現一致の試みが始まりました。例えば二葉亭四迷は「だ」、山田美妙は「です」、嵯峨の屋御室は「であります」、尾崎紅葉は「である」体を使っていました。
 
 

 言文一致運動を復活させたのは文学者の尾崎紅葉(1867〜1903)でした。紅葉は「地の文と会話文が調和してこそ作品が生きる」と主張しました。言文一致体を使用し始めて、「である」調の文末を勧めました。紅葉は明治文壇の一大結社「硯友社」を結成したため、有力な提唱者として、あらゆることの要となっていました。その影響を受け、一般の作家も、彼が使っていた「である」体で小説を書くようになりました。例えば、二葉亭四迷も『浮雲』で、「である」体を使っていました。
 二葉亭四迷(1864〜1909)は言文一致体と優れた心理描写・内面描写で新生面を開いた近代文学の有名な小説家および翻訳者です。
 私は四迷のことを、人間的に尊敬できる、見習うべき人物だと思っています。生活は安定しませんでしたが、多くの分野で活躍し、最後まで色々な試みをしていたからです。彼は社会問題に深い興味を持っており、外交官にもなりたかったのですが、ロシアからの亡命者ニコライ・グレーの文学論を読んで、社会主義に開眼し、文学への興味を強めました。したがって、学んだ様々な外国語の中でロシア語に最も興味を抱き、特にロシア文学から多くの作品を翻訳しています。外国語や外国の事情に関する知識が明治維新以後、日本で急速に発展したことに関し、それが独立を保っていくために重要であることを四迷は理解していました。
 文学の道を目指す四迷は、坪内逍遥(1859〜1935)という評論家の『小説神髄』(1885年)を読んで、自分の書きたい小説の文体に迷い、逍遥に相談しました。逍遥から明治落語家の三遊亭円朝(1839〜1900)の落語のように書くことを勧められ、四迷はこの忠告を受け入れて、日本最初の近代写実主義小説『浮雲』(1887〜1889)を書いています。その20年後に、再び小説『其面影』(1906年)と『平凡』(1907年)を描いて、言文一致体に取り組みました。
 私は、言文一致運動は「日本語」の歴史における最も重要な活動だったと思っています。なぜかと言うと、日本国民と日本語学習者はすべて、これをきっかけにして、言文一致体で文章を書き、また読めるようになったからです。ですから、私は四迷に感謝しています。

(フィゼレ・キティ)
 
 

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