日本では、僕がいま在籍している大学のことを説明することがとても難しい。中欧を大学名に謳いつつも、しかし大学は「いわゆる東欧」にある。ハンガリーは果たして東欧なのか中欧なのか、それをまず説明しなければならない難しさ。そして説明しようとした途端に自分の知識や考えの狭さに気づく。しかし僕はCEUに身を置くものとして、ここに来るまで漠然と「東欧」という言葉を無批判に使ってしまっていた学生としてこの問題を考えなければいけない。特にナショナリズムと歴史を学ぶ一学徒として。大学名だけではない。日々の生活の中でも同じように、バルカン半島やルーマニア、ブルガリア、グルジア、アルメニア等、「いわゆる東欧」にくくられてしまっている国からきた友人たちから多くを聞き、考えたい。おそらく、僕がCEUで得た財産として最大のものはこれら友人であり、更には、こういう風に考え行動できるようになった感受性なのだと思う。そしてこの大学には、この感受性をより磨き、問い直し、チャレンジすることのできる環境が整っている。専門分野の全く違なる友人たちと、同じ空間と時間を共有し、話し合い、向かい合う環境がここにはある。僕はそれが好きだ。お互いが違って、それでも似ていて、それでも違う。ほんとうに「人間くさい」、そして人間味に溢れた環境だと思う。だから僕は、いまCEUで学び、ブダペストに生活していることをとても嬉しく、誇りにも思っている。
ただ、良い事尽くしのようなCEUでの勉学、そしてブダペストでの生活だが、最後にいくつかアンビバレントな点もあげたいと思う。特に2点。第一に大学そのものの傾向としてのヨーロッパ中心主義、これはやはり否みがたい。特にナショナリズムの問題を扱うべき授業のなかではそれが顕著だ。アジアのみならず南アメリカ地域やオセアニア地域への関心も薄い。それが残念でならない。第二点目は良いことの裏返しだけれども、学生生活が充実し過ぎていてその居心地の良さからなかなか外に出て行けないことだ。CEUの多くの学生は学費を全額免除され、寮での生活と月々のお小遣いをもらっている。それだけ勉強しろということなのだが、おかげで多くの学生がハンガリー語はおろか、歴史や文化もあまり学ぶことなく、ただ単に学位だけとって卒業していく。僕自身、反省すべき一人にならぬようにと心がけながらも、なかなかうまくいかない。CEUという特殊な環境にいると、それを取り巻く大きな社会に無関心でいられてしまうのも、他ならぬ事実だ。それは僕の母校である国際基督教大学(ICU)が、Isolated Crazy Utopiaと揶揄されていたのと似たような境遇であるような気がする。僕はこのブダペストにあるCEUという大学で学ぶ意義をしっかりと考えてみたい。ICUでは東京にあるICUという大学での意味を考えることはなかった。東京は僕にとっていまブダペストがそうであるような街にはならなかった。しかしいま僕はこうして夢の街に住んでいる。
僕がこの夢の街に住んで、まだ夢を見ていられるのもあと1年。その後何をしていくか、それもまだ夢の中でだけ考えることにしている。僕がヨーロッパを真剣に考えるようになったきっかけは森有正、加藤周一、そして竹内好といった人達の著作を通してだった。僕は僕なりに、ここブダペストにいて自分なりにヨーロッパ・アジアについて考えていきたい。あと1年、修士論文を書かなければいけない手前多忙を極めるけども、自分なりに写真と思索、読書に取り組んでいきたいと思う。そうしていけばそのうち自分の夢も将来も見えてくるだろう、そう信じている。 |