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日系アメリカ人の歴史
Varga Attila


 2012年の秋、私は修士論文を書くために南カリフォルニア州で日系アメリカ人の歴史について、とくにアメリカの強制収容所に関して研究活動をしていました。ハンガリー人としてこのテーマ選択は奇妙に見えるかもしれませんが、個人的な理由があります。私の叔母、谷野貞子(SadakoTanino-Szathmáry)も1940年代に収容された日系人たちの中にいました。叔母は残念ながらもう他界してしまいましたが、子供のころ私にローワー(Rohwer)という強制収容所の体験についてよく話してくれたから、日本学科の学生として、このヨーロッパではあまり知られていないテーマを選びました。
 現在もアメリカには多くの日系人が暮らしていますが、彼らは自分ではアメリカに生きるアメリカ人という意識を持っています。
 最初にアメリカに渡った日本人はジョン万次郎と呼ばれた人でした。でも、日系アメリカ人の本当の歴史は明治維新の後、1968年に日本人最初の移住者153人が砂糖きび農場の労働者としてハワイに渡ったときに始まったと言えます。1968年がちょうど明治元年にあたることから、彼らは「元年者」と呼ばれました。この「元年者」は渡航地で奴隷にも等しい取り扱いを受け、明治政府が救出に乗り出さなければなりませんでした。1881年には、ハワイ国王カラカウアが来日して、中国人に代わる労働力を求めて日本人移民誘致を日本政府と交渉しました。それによって1885年には政府間の契約による官約移民1930人がハワイに渡りました。ハワイの砂糖きび農場では、労働監督はいつもヨーロッパ人で、日本人は一緒になって働く肉体労働者でした。でも、ハワイでの日本人の同化は成功でした。日系人の定住が進んで、1941年にはハワイ人口の40%は日系アメリカ人になりました。

 
 
    Courtesy of the Japanese American Historical Society of San Diego
 

 日系人移民は、いつかはお金をたくさんためて日本へ帰ることを夢見ていたため、低賃金で懸命に働きました。しかし、アメリカ本土にあまりにも短い期間に日本人移民が殺到したため、仕事を奪われることを心配したアメリカ人による日本人排斥の動きが強まりました。 日本人は法律で「帰化不能外国人」と規定され、結局1952年までアメリカに帰化することができませんでした。当時のアメリカでは異人種間の結婚が法律で認められていなかったため、日本に帰って結婚相手を見つけるだけの資金がない男性は、日本にいる親戚を通して写真を交換することで結婚相手を見つけました。これが「写真結婚」と呼ばれるシステムで、1920年代には多くの「写真花嫁」が渡米し、それにより日系コミュニティーの発展が促されたのです。日系コミュニティーの大部分はアメリカのワシントン州とオレゴン州とカリフォルニア州にある「日本町」という地区に住んでいました。やがてアメリカ生まれの二世が増えるとコミュニティーも大きくなり、さまざまな社会活動を提供するようになり、二世に日本語と日本文化を教えるために日本語学校も作られました。子供たちは放課後、様々なクラブ活動やスポーツを楽しんで、毎日を過ごしたのです。二世はアメリカで生まれたからアメリカ合衆国国籍も持っていました。二世はアメリカ文化の影響を強く受けて成長しました。国立学校に通い、クラスメートと同様に英語の本や雑誌を読み、ハリウッド映画を楽しんだのです。その一方で彼らは一世の両親や日本語学校の教師から日本的な道徳心や文化も学びました。このような二種の文化的影響を受けて、二世は日系アメリカ人となったのです。来日して、日本の学校と大学で学んだ二世は「帰米」と呼ばれました。1940年頃には二世の大部分はまだ高校生以下でした。
 一世の多くは農業に携わり、その大部分はカリフォルニア州に集まっていました。日本的方法を使ってアメリカの西部農業開発に大きな貢献をしました。しかし、白人の反日感情も高まってきて、一世の大成功が反日運動に火をつける引き金になってしまいました。1908年の「紳士協定」をうけて、日本政府はアメリカへの日本人移民を制限しました。1913年にはカリフォルニア州で実質的に日系人土地所有を禁止する「外国人土地法」が成立し、日系移民たちはアメリカ生まれの二世の子供の名義で土地を所有しなければならなくなりました。1920年の新外国人土地法は、1913年の法律より厳しいものでした。1924年、排日移民法が成立し、日本からの移民が事実上停止されました。白人の反日感情は日系コミュニティーの毎日の生活の毒になってきて、1930年代に反日感情は悪化の一途を辿りました。
 第二次世界大戦期は日系人にとってつらい時期でした。1941年12月7日、日本軍による真珠湾攻撃が行われた直後、地元当局とFBIがハワイとアメリカ本土の日系コミュニティー・リーダーたちを拘束しました。翌日の朝6時半まで737人の一世たちが逮捕され、48時間後にはその数は1291人までになりました。かれらは正式な容疑も告げられることなく突然逮捕され、家族は面会を許されませんでした。逮捕された一世の多くは、そのまま司法省管轄の敵性外国人収容所に送られ、戦時中を過ごすこととなりました。1942年2月19日、ルーズベルト大統領は、大統領行政命令9066号に署名しました。事実上、この命令が日系アメリカ人の強制立ち退きから強制収容への一連の軍事行動を可能にしました。3月2日にアメリカの西海岸が軍事地区になり、それによって4月の間に西海岸に居住していた約12万人の日系人やアメリカ国籍の二世はスパイ行為や破壊行為の事実がないにもかかわらず、「軍事上の必要性」という名目の下、強制立ち退き・収容を余儀なくされたのです。アメリカ生まれの日系人も外国生まれの日系人も同様に、アメリカ国内10箇所に点在した強制収容所に収容されました。
 収容所は湿地帯や砂漠地帯などの住環境には適さない地域に作られました。有刺鉄線に囲まれた敷地内にバラックが建てられ、6メートル四方の一部屋に一家族が暮らしました。部屋には水道もなく、共同の洗面所と洗濯場に行かなければなりませんでした。日系人は収容所での暮らしをよくするために、施設設備を改善し、学校や娯楽施設を作るなど、様々な努力や工夫をしました。しかし、収容所内コミュニティーの生活はプライバシーがなく、長い列と狭苦しい生活空間、混雑した食堂と浴場など、いつも混乱をきたしていました。男性と女性が別れて食事をしたり、子供は子供だけで集まって活動したりする間に、日系人家庭での親の権限も次第に弱まっていきました。戦時中の反日ヒステリーの中で、「民主主義」「自由」「人権」というアメリカの理想は無視されました。
 第二次大戦の終結とともに、収容所が閉鎖され日系人は西海岸に戻り、家屋破壊や周囲の敵意に直面しながらも生活の立て直しをはかりました。50年代には日系人はもう一回我慢しなければなりませんでした。この年代は日系家族の人生とコミュニティーの再建時代でした。70年代に戦後補償運動が始まり、レーガン大統領が1988に強制収容に対する補償を規定した「市民的自由法」に署名しました。アメリカ政府による謝罪文と2万ドルの個人補償金が被強制収容者に渡されました。日系アメリカ人のコミュニティーは現在栄えています。

参考文献
1. 森茂岳雄・中山京子・川崎誠司(2001)『日系アメリカ人の歴史:アメリカに渡った日系移民の歩み』全米日系人博物館。
2. 島田法子(2005)『第二次世界大戦下の二世教育』日本図書センター。
3. 日系アメリカ人強制収容所の関連年表
全米日系人博物館マナビ&スミ・ヒラサキ・ナショナル・リソース・センターhttp://www.janm.org/jpn/nrc_jp/internch_jp.html
4. Daniels, Roger - Taylor, Sandra C. - Kitano, Harry H. L. (2001), Japanese Americans – From Relocation to Redress, University of Washington Press.

(ヴァルガ・アッティラ)
 
 

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