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コバケン・レジェンド
小林研一郎ハンガリー・デビュー40周年
盛田 常夫


40周年記念コンサート
  私にとって、コバケンの祝賀企画は、これが三度目である。1994年にはブダペストにオープンしたケンピンスキーホテルの大広間で、国立フィルのメンバーの余興演奏を中心に、当地の音楽家や関係者を集めてデビュー20周年を祝った。ちょうどコバケンとともに演奏旅行に来ていた早稲田大学グリークラブにも参加してもらい、350名ほどの音楽仲間で、大広間が埋め尽くされ、午後7時から深夜まで楽しい演奏会が続いた。この模様は当地のDuna TVの50分番組として、繰り返し放映された。
  2004年には、ハンガリー科学アカデミー本部大講堂で、デビュー30周年の記念コンサートを開いた。この時は国立フィル・メンバーの室内楽、コチシュのピアノに加えて、ハンガリー・ラジオ児童合唱団、ハンガリーで活躍する日本人音楽家を含めた小演奏を組み合わせて、コンサートを構成した。およそ650名の招待客だけのコンサートだった。
  そして、今年の40周年である。用意されたプログラムは、「コバケン」18番中の18番、コバケン・ワールドが実感できる曲目のオンパレードである。コンサート・シリーズの最後は、小林作曲「パッサカリア」から「夏祭り」をアンコール演奏して締めた。これはコバケンがオランダと日本の通商400年を記念して、オランダ政府から委嘱されて作曲したものである。幻想交響曲を終えたMAVオケの打楽器と当地で活躍する和太鼓グループ(清帰途太鼓)の競演で会場は最高潮に達し、盛況のうちに今回のコンサート・シリーズを終えた。

第一回国際指揮者コンクール
  ウィーン、ブダペスト、プラハはいわばクラシック音楽のメッカである。ハンガリーには各行政区に国立の音楽学校があり、音楽教育の底辺を支えている。日本の民間の音楽教室が公費で運営されていると考えれば良い。今日本で売り出し中のピアニスト金子三勇士君も、日本の幼稚園を卒園してすぐに、ハンガリー人祖父母の家に預けられ、そこから現地の小学校に通いながら、放課後にヴァーツ市の音楽学校に通っていた。ハンガリーでは定期的に年齢ごとの地域コンクールや全国コンクールがあり、小学生時代から金子君はピアノ部門だけでなく、民謡歌唱やソルフェージュで常にトップか3位以内の成績をとっていた。コンクールに児童を引率して参加していた妻から、「日本人ですごい男の子がいる」と聞かされ、それが金子君を日本に紹介する一つのきっかけになった。金子君は13歳でリスト音楽院の英才教育課程に入り、そこを卒業した後に、東京音大付属高校3年に転籍し、その後東京音大を卒業して、現在日本で最も売れっ子の若手ピアニストの一人になった。バルトーク国際ピアノコンクールの優勝者でもある。
  クラシックが盛んなハンガリーであるが、若者のクラシック離れは著しい。アメリカ文化の浸透に比例したクラシック音楽の衰退は第二次大戦以後の世界的な現象である。そういう時代背景のもとに、1974年にハンガリーは国際指揮者コンクールを開催した。ハンガリー国営テレビ(MTV)主催で、ハンガリー国立オケの音楽監督である巨匠フェレンチック審査委員長のもと、オーストリアやドイツの著名音楽家を招聘して、1ケ月近い長丁場の国際コンクールが挙行された。指揮者のみならず、ソロの演奏家を目指す若手音楽家にとって、国際コンクールでの受賞は音楽家生命を左右する。コンクールの受賞歴がなければ仕事がもらえないのがこの世界である。
  1974年のハンガリーは、TVが国民に普及して間もない時期で、TV鑑賞が唯一の娯楽と言っても良い時代。夜のゴールデンアワーをふんだんに使い、第1次予選から最終第4次審査の様子が、毎夜、国営テレビで放映された。多くの家庭では、両親とともに子供たちもこの面白いコンクールに見入るのが日課になった。国際審査員14名が20点の持ち点で若い指揮者の指揮振りを評価し、最高点と最低点をカットした12名の評点が加算され、電光掲示板に表示される。まるで体操競技でも見るような光景である。TVの前で皆、一喜一憂して、このコンクールの模様を楽しんだ。
  ヨーロッパ各地から参加していた若手指揮者を押さえ、クラシックの世界からほど遠い国からやってきた小林研一郎が、第1次から最終第4次審査まで、すべてトップで通過するという快挙を成し遂げた。この詳しい模様は、小林研一郎『指揮者のひとりごと』(騎虎書房、1993年12月)に詳しい。優勝の日から小林の指揮者人生が、大きく回り始めた。小林はハンガリーが生んだレジェンドになっただけでなく、指揮者としての格を得ることになった。ヨーロッパではカラヤンやバーンスタインとの出会いがあり、また日本ではコンサート依頼が舞い込み、指揮者としての本格的な活動が始まった。
ハンガリーでもリスト音楽院でのガラコンサート以後、地方都市でのコンサートが次々に開催された。今回のコンサート地でも、40年前のコンサート・プログラムや小林のサインが入った写真を持参する年配者に何度も出会った。コンクールで最初に振ったオーケストラがMÁVオケで、しかも今回のプログラムに入った「セビリアの理髪師序曲」は最初の課題曲だった。小林は最初の一振りで飛び出したオーケストラの音色を忘れることができないという。この時にオーケストラメンバーだったヴァイオリン奏者が1名、まだ現役で残っていた。さらに、ハンガリー・ラジオオケのホルン奏者は今回のペーチでのコンサートを最後にして、47年間のオーケストラ活動で定年を迎えた。もちろん彼はコンクール時のオケで演奏していた。
小林は第二次予選でドヴォルザーク「新世界」第四楽章をハンガリー・ラジオオケと振ったが、制限時間より早く指揮を終えたために、2名の審査員の評点が加算されずに電光表示され、最下位に転落した。ところが、すぐに2名の評点が加算修正され、最下位からトップになるというハプニングがあった。この時の会場がハンガリー・ラジオのリハーサル会場で、ラジオ・オケの最初のリハーサルが始まる前に、小林の口からこのエピソードが語られた。

レジェンド
  こうして小林研一郎は指揮者としての本格的な道を歩むことになり、他方ハンガリー人にとっても小林研一郎は記憶に深く刻まれたレジェンドになった。今でも地方公演にいく高速道路のカフェでも、あるいは街角でも、サインを求めに来る年配者が必ずいる。TVで見る顔から実際の人物を判定するのは難しいと思うのだが、ほとんどがテレビで小林を応援していたと即座に近寄ってくる。まさに小林はハンガリー人にとって、古き良き思い出が詰まったレジェンドなのだ。
  さすがにハンガリーでも、クラシック・コンサートの聴衆の平均年齢は高い。オーストリア国境に近いショプロンの小さなホールに集まった聴衆の平均年齢は60歳を超えていた。その聴衆の中にも、ハンガリーのデビュー当時のプログラム冊子や写真を抱えてくる婦人たちがいた。
  小林の前に指揮者として国際舞台で活躍できた日本人は、小澤征爾しかいない。ソロの演奏家で国際的に活躍してきた人はそれなりにいるが、指揮者となると非常に限られる。それはサッカー監督が置かれて状況に似ている。いかに本田や香川が活躍しようと、また日本のサッカー指導者が欧州リーグのチームを率いることは難しい。本場欧州のレベルと日本のレベルにはまだ超えることのできない大きな壁があり、個として突破できても、組織を束ねる指導者としてこの壁を突破することは難しい。小沢や小林は音楽の世界の大きな壁を乗り越えて、世界の最前線で勝負している音楽家なのである。このことを理解できる日本人は少ない。
東洋から来たクラシックと縁のない国の音楽家が、本場の有望株を押しのけて、どうしてクラシックのメッカでレジェンドになれたのか。本場の専門家を唸らすものがあったからに違いない。それは何なのだろうか。
ヨーロッパの常任指揮者や音楽監督にとって、コンサートはあくまで練習の延長上にある。したがって、日ごろの練習やトレーニングに精力的に取り組むが、コンサートの指揮者としての動作にそれほど関心を示さない。日ごろの練習がオーケストラの技量を上げる基礎になるから、それがしっかりしていれば、コンサートで無駄な動きをする必要はないというのが、指揮者にたいする常識的な考えである。
これにたいして、小林はオーケストラの技量の向上を自分の課題と捉えておらず、オーケストラの既存の技量を前提にして、そこから限られた時間でコンサートへと導くのが指揮者だと考えている。その意味で、常任指揮者としてオーケストラを指導するというよりは、客演指揮者として当該のオーケストラの技量を最大限に発揮できるような作品形成を考えている。小林にとって、コンサートは指揮者がオーケストラと融合して、生きた音楽を作り上げる場なのだ。したがって、小林は短期間のリハーサルの最初から、感情移入しながらオーケストラに指示を与えていく。指揮者が感情込めて指揮することによって、オケのメンバーの演奏意欲が掻き立てられる。しかも、類稀なるタクト捌きが感情移入を加速する。弦楽器出身の指揮者のように、指揮台に張り付くようにタクトを振るのではなく、指揮台を自在に動きながら、時には小さく飛び上がり、体全体で指示を表現する。ここがソリスト出身の指揮者と大きく違うところで、オーケストラにとって、このような指揮者と共演することが演奏の楽しさや喜びを生みだす。いかにオーケストラの技量があっても、単調に演奏すれば、つまらないものになってしまう。オーケストラを構成するのも生身の人間だから、やはり彼らをやる気にさせて、百%の能力を引き出すような指揮が、ライブのコンサートには必要なのだ。
  小林の登場によって、ハンガリーではクラシック・コンサートに通う人が確実に増えたと言われる。生演奏の楽しさを体感させてくれる小林は、並みいる指揮者の中でも、特別の地位を確保している。まさに、本場の指揮者が忘れたものを、クラシック音楽のメッカから遠く離れた東洋から来た日本人が改めて気付かせてくれたのだ。

文化的価値を知る
  1994年の20周年記念パーティ、2004年の30周年記念コンサートには、当地の商工会加盟各社代表のほとんどが夫妻で参加した。今回も、日本商工会から記念コンサートへ寄付をいただいたが、残念ながら7つのコンサートに商工会加盟企業の代表の姿は見えなかった。この20年の間に、商工会加盟企業の構成が大きく変わったこともあるが、なんとも寂しい限りである。
  日本から派遣されてくる最近の日本人社員の多くはクラシックに関心がない。薄っぺらな娯楽が蔓延している日本の文化状況を考えれば、仕方がないことかもしれないが、日本の娯楽状況を嵌(はま)ったまま、「ハンガリーには日本のような娯楽がない」と嘆くのは間違っている。日本に蔓延している娯楽は文化の範疇に入らない。赴任した国がもっている最高の文化的価値を知り、それを楽しむ余裕がなければ、ハンガリー、いや欧州に赴任してきた意味がないだろう。欧州に赴任しても、趣味はカラオケとゴルフというのは情けない。こういうことを教えるのも、会社のトップの役目の一つ。文化的素養がなければ、日本の企業人は国際人として、一目おかれる存在になれない。
  赴任した国や地域の最高の価値を吸収するという貧欲さは、新しいビジネスを展開する能力と密接に関係している。目先の仕事や利益に埋没してしまうのではなく、未知の価値を積極的に探り、我が物にするという姿勢こそが、国際人として持つべき姿勢でなければならない。そうでなければ、一介の社畜に堕するだけである。
一言付け加えておけば、コンサートでは駐在員のご夫人たちにお会いすることができた。ご婦人たちの方が、新しいものを吸収する能力がある。ご主人たちも奥方たちに学んで、新しいものに目を向ける努力をするべきではなかろうか。ハンガリーが生んだ最高傑作の一人、コバケンをハンガリーで直に見て感じることができるのだから。

(もりた・つねお 「ドナウの四季」編集長)
 
 

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